離婚してから独りで暮らしはじめた街。まだそれほど馴染めていない景色。気の持ちようによっては新鮮な刺激に満ちた平日の午前中ではあったが、穏やかな気候にもかかわらず街に人影はまばらで、たまにすれ違うのは散歩中の老人ばかりだった。

 男は何度か行ったことのある昔ながらの煙草屋に向かった。しかしいつも年配の女性が怪訝けげんそうに顔を覗かせていた窓はシャッターが降りていた。隣にあった小さな喫煙スペースも灰皿や自動販売機がすべて撤去され、「禁煙」と書かれた貼り紙が必要以上に何枚も無造作に貼られていた。どうやらいつの間にか店をたたんでしまっていたようだ。

 「きっと近所から文句が出たんだな。今どき煙草を吸うなんてまともな人間じゃないということだ」

 男はブツクサと独り言を言うと、仕方なく少し先のコンビニまで歩くことにした。

 その道すがら、こじんまりとしたショッピングモールの一角に古びた木造の小さな平屋が佇んでいるのが目に入った。

 「こんなところにこんな店があったかな。しかしとてもではないが新しくオープンした店とも思えない建物だ。それこそ100年近く続く老舗という方がしっくりくる。まあ近頃はレトロを愉しむ若者も少なくはないのだろうが」

 男の足は思わず店に引き寄せられた。近づいてみると看板には「なんでも買い取ります。リサイクルショップ・輪廻」と書かれていた。入り口の横のショーケースには、古い置き時計や懐中時計、万年筆などが陳列されていた。

 「リサイクルショップというか、どっちかと言えばこれはもはや骨董品屋だな」

 男は店内を覗いて見たい一心に駆られ、気がつけば建て付けの悪い磨りガラスの扉をこじ開け、中に足を踏み入れていた。

 小高いビルに挟まれ日差しの届かない店内は薄暗く、一人の客の姿もなくひっそり静まりかえっていた。入り口のショーケース同様、店内には古びた品々が所狭しと並んでいた。唯一動きのある物といえば奥に見える柱時計で、くすんだ黄金色こがねいろの大きな振り子をぎこちなく揺らしていた。静かな店内を満たしていたものといえば、その柱時計のカチカチと時を刻む音ぐらいだった。

 「いらっしゃい」

 突然の声に男は度肝を抜かれた。振り向くと部屋の隅に机と椅子があり、一人の老人が座っていた。最初からずっとそこに居たのかもしれないが、男はまったく人の気配を感じていなかった。薄暗い部屋に勝るとも劣らない影の薄さ。それは男がひたすら目を凝らして見つめなければ、存在を確認できないほどだった。

 老人の髪は艶やかな鼠色で、両耳が隠れるほど伸びていたが、襟足は綺麗に整えられていた。頬はしな垂れ、さながら小型のセントバーナードといった顔つきだった。鼻にかけた丸眼鏡はなぜか取ってつけたような違和感があり、その奥の小さな細い目はつぶっているのか、もともと細いのか分からなかった。

 「そんな死神でも見たかのような青ざめた顔で人を見るもんじゃありませんよ。へっへっへ」

 老人はそう言いながらやけに愉快そうに笑った。笑った口にのぞかせた歯は所々抜け落ちていた。それでもその声は、まるでサラウンドスピーカーを通しているかのように臨場感のある、よく響く声だった。

 「今日は何を売りにいらしたんでしょうか?」

 「いや、別に…。ただふらっと…」

 「久しぶりのお客さんだ。これもなにかの縁です。きっと何か売った方がいいものがあると思いますよ?あ、でもそのパーカーでしたら、あいにく大した対価はお支払いはできかねますがね。へっへっへ」

 「こ、これは売る気などない」

 男ははだけていた前のジッパーを慌てて首元まで引き上げた。

 「それは賢明でございます。では何か他にございますでしょう」

 「だから、私は何かを売りにきたわけではなく、たまたま通りかかっただけだ」

 「ほぉ『たまたま通りかかった』のですか。そしてこの店に入られた。いやぁしかし、たまたま通りかかっても、この店に入られる方はなかなかいらっしゃらない。やはりこれは縁というほかございませんな。では何をお売りになりますか?」

 男は「しつこいヤツだ」と思いつつも、根っからのお人好しということもあり、そう何度も言われると次第に何かを売らなければならないと心の片隅で思い始めていたのだった。

 「なかなか商売上手だな。そこまで言われると、私も何か売りたくなってくるではないか。しかし私はもうこれまでの人生ですべて身ぐるみを剥がされたも同然だ。だから売れるものなどほとんどないが、それでもあるとすれば…そうだなぁ…『過去』かな」

 男は気の利いた冗談のつもりで不意にそう口にした。ところがその途端、老人は尋常ではないほど目を大きく見開き、白目に浮き出た血管を赤々と充血させて言った。

 「過去ですかっ!」

 そしてすくっと立ち上がり、見た目とは到底かけ離れた軽快さで男の方へ近づいてきた。男は思わず二、三歩後退あとずさりした。気がつけば腕から首筋にかけて鳥肌が立っていた。

 「これはこれは素晴らしい!そうとなれば、まぁまぁ、こちらへどうぞどうぞ!」

 老人はどこからともなく椅子を一つ差し出し、そこに座るように手振りで男を促した。

 「やはり縁ですな。いやいや素晴らしい。お茶でも入れますから、まぁゆっくり話を聞かせてください。あなたの『過去』を。へっへっへ」

 老人は嬉しさのあまり飛び跳ねるようにして奥の部屋に入ろうとしたが、扉を開けてピタッと止まったかと思うと、男に振り向いて言った。

 「今お茶を持ってきますからねぇ。決して帰らないでくださいよぉ?へっへっへ」

 老人の気味の悪さにすっかり怖気づいてしまった男は、言われるがまま座って待つほかになかった。


 男は老人を待つ間「私はいったいここで何をしてるんだ」と悔やみ始めていたが、裏腹に、内心「どこからどう話そうか」と考えてしまう素直な性分は抑えられなかった。

 まもなく老人はお茶を持って現れた。机の上に置くなり急いで椅子に座って言った。

 「それではどうぞ?慌てずに、最初からゆっくり話してくださいねぇ。へっへっへ」

 男は躊躇ためらいながらも、お茶で口を潤すと、仕方なく話し始めた。最初は「馬鹿馬鹿しい。なんで見ず知らずの薄気味悪い老人に、私の個人的なことを細々こまごまと話さなければならないのか」と懐疑的ではあったが、話を進めるうちに、かえってそのしがらみのなさが言葉を滑らかにしていった。そもそもこれまで自分の人生を振り返ってつまびらかに人に話すこともなかったし、あったとしても、離婚調停で弁護士にさまざまな事実を並び立てたくらいだった。だとしてもそこには生い立ちなどは含まれていない。あらためて自身の記憶を辿たどると、一つの記憶がまた別の記憶を呼び起こし、芋づる式に連鎖しながら、気がつけば滔々とうとうと人生を語っていた。男はすっかりえつっているようだった。

 一方、老人はこの上なく聞き上手で、「ほぉほぉ」「それはそれは」など、要所要所で相槌を打ちながら男の話を見事に引き立てていた。


 男は大方話し尽くすと、後半の惨めな自分を再認識して意気消沈した。逆に老人はいかにも満足そうに、満面の笑みを浮かべて言った。

 「最後を除けばそんなに悪くない人生でしたなぁ。いやいや本当に素晴らしい。へっへっへ」

 「しかし悪くない人生とはあまりいいものでもない。思えば何も自分の意思でチャレンジもしたこともなかった。何も本気で取り組んだこともなかった。心を燃やして何かに追い求めたこともなかった。本気で誰かを好きになったこともなかった。ただ成り行きのまま生きてきた。人が敷いたレールの上を歩いてきただけだ。何かをしているようで何もしていなかった。そして最後にはすべてが崩壊した。オセロのように、並べてきた白が最後の一手ですべて黒に反転したんだ…」

 「私は好きですねぇ、そういう結末。それこそ人生というものでございましょう。へっへっへ」

 「人ごとだからそう言えるんだ」

 「まあまあ、そういきり立たずに」

 老人はそうなだめると立ち上がり、眼鏡の上から男を覗き込むようにして言った。

 「では、買いましょう。あなたの過去を。対価を支払う価値が十分にございますからねぇ。へっへっへ」

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