老人は机の下から小箱を一つ取り出した。開くと中には黒いサングラスが入っていた。老人は同梱されていた布で丁寧にレンズを拭き「では、これをかけてください」と言って男に手渡した。

 「これをかけてどうするというのだ」

 状況のつかめない男は、サングラスを四方八方から眺め回しながら老人に尋ねた。どう見ても何の変哲もない普通のサングラスにしか見えなかった。

 「ですから、あなたの過去をいただくのですよ?」

 「これをかけるだけで?」

 「そうでございます」

 「それはどうも納得いかない。どうしたらこんなもので私の過去がどうのこうのできるというのだ?」

 男はこの期に及んで老人に食い下がった。

 「まあまあ、急にそんなかたくなにならずに」

 「いやただ知りたいから聞いているだけだ」

 「はぁ、そこまでおっしゃるなら仕方ありませんなぁ。では簡単に申し上げますよ?さっきお出ししたお茶には特殊な成分が含まれております。このサングラスをかけるとそれが化学反応をおこして、サングラスに搭載された通信機能を通じてあなたの記憶を遠隔のコンピュータに伝送する仕組みなのでございますよぉ。へっへっへ」

 男はキョトンとした顔で聞き返した。

 「そんなハイテクな技術を使っているのか?」

 「まぁそんなところでございます。ただ、心配しなくても大丈夫ですからねぇ。過去といってもすべての記憶を取ってしまうわけではございません。それでは今後の生活に支障をきたしてしまいますからねぇ。あなたにとって辛かったこと、苦しかったこと、嫌だったこと、そういうものにまつわるところだけをいただくのです。きっと、すっかり生まれ変わった気持ちになりますよぉ?へっへっへ」

 「それはこっちとしては願ったり叶ったりだが。本当にそんな都合のいい話があるのか?にわかに信じがたい。しかしそれにしても、いくら貰えるのか知らないが、そんなものを買い取ってどうするというのだ?」

 「まぁ世の中には、いつの時代も、物好きというものがいるのでございますよ。大抵はお金持ちですがねぇ。よっぽど他の遊びはやり尽くしたんでしょう。人の過去を買い取って、それを自分で味わってみて楽しむわけですよ。しかも悪い過去ほど刺激が強い。それはそれは高値で売れるわけでございます。苦しむ人間がいれば、それを喜ぶ人間がいる。だからこの商売も成り立つのでございます。へっへっへ」

 男は「信じがたいがここまできたら仕方ない。嘘だとしても失うものもない」などと自分に言い聞かせるしかなかったが、それでもなかなか決断しきれず、サングラスをいじり回していた。

 もたもたする男に業を煮やした老人はかすように言った。

 「ではよろしいですかぁ?はいサングラスかけて。あ、あと、残ってるお茶も全部飲んじゃってくださいねぇ?へっへっへ」

 男はようやく意を決してお茶を飲み干し、サングラスをかけた。

 「はい、そうです。いいですよぉ。では私の方を見てください?楽にしててくださいよぉ?へっへっへ」

 そう言うと老人は男の顔近くで指をパチンと鳴らした。すると男の眼前、サングラスの裏側には過去の記憶が映像となり、走馬灯のように駆け巡った。男は膝の上でギュッと拳を握った。そのまま一、二分ほど経過した。傍目はためには少しの間ではあったが、男にとっては、半生のダイジェストは相当長く感じられたのだろう、一通り終わったときにはすっかり脱力した様子だった。そして男の頬には、サングラスの下から薄っすらと涙が溢れていた。老人はタイミングを見計らってまた指をパチンと鳴らした。

 「はい、おしまい。へっへっへ」

 老人はゆっくり男の顔からサングラスを外した。

 「いかがでしたかぁ?」

 男は指先で軽く涙を拭うと、椅子から立ち上がって言った。

 「うん、なんだかとてもスッキリした。なんかやる気に満ちてきた気がする。うん、これはこれは。信じられん。すごくいい感じだ!」

 男はすっかり生まれ変わったようだった。

 「それはそれは、うまくいったようでございますなぁ。へっへっへ」

 老人はサングラスを片付け、机の下から今後は別の小箱を取り出した。

「では、対価をお支払いいたしましょう」

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