第一章 夜叉の目覚めた日(9)
桂花宮の裏口に辿り着くなり、言い争うような声が聞こえて足を止めた。
何やら
「名簿と人数が合わぬ。隠し立てするなら──」
「わ、私は何も知りませぬ。どうか乱暴は──」
見たことのない大男が、年嵩の宮女に向かって声を荒らげていた。
宮女の方は、沙夜が世話になっている寮の寮母である。対する男は筋骨隆々として
考えるまでもなく、この光景は不自然だ。
何故なら後宮内に入ることができる男は限られている。皇帝陛下か成人前の皇子か、もしくは男性の象徴を切り落とされた宦官だけなのだ。
しかしあの男はそのどれにも該当しない。宦官に髭は無く、声は甲高く、
となれば何か異常事態が起きているに違いない。さらなる情報を求めて戸口から顔だけ出して、視線を巡らせていく。
すると不意に、嗅ぎなれない匂いを感じ取った。
何だろうこの香ばしさは。そう思いつつ首を
「────うそ」
あるべきはずのものが、そこになかった。
朱色に塗られた雅な殿舎が建っていたはずの場所には、無惨にも黒こげとなった何かがうずたかく積み重ねられており、白い煙を吐き出し続けていた。
火事だ。火事が起きたのだ。
付近への延焼を防ぐためか、お宮の柱は内側へ向けて全て倒されていた。
もし中に人が残っていたとしたら、生存は絶望的だろう。しかもその場所はあろうことか、昨日沙夜も訪れた香妃の私室がある辺りだった。
そうか。だから衛兵が後宮内まで入ってきて、寮母を尋問しているのだ。よくよく見れば崩れたお宮の周辺にも武装した男たちがいる。消火は粗方終わっているようなので、これから現場を検分するところなのかもしれない。
「……いや、でもおかしい」
何かが頭の中で警鐘を鳴らしていた。
もう一度寮母の方に沙夜は注意を向ける。目に映りながらも見逃していた違和感を、今度こそはっきりと察知した。寮母はなんと、
であれば放火なのか。人為的な火事だとすれば目的は──
思考を研ぎ澄ませていくうち、不意に頭の中に、昨夜聞いた言葉が
──桂花宮に戻ってくることは許さないよ。
蘭華が言ったあの言葉に隠された、本当の意味とは何か。
もし彼女が全てを知っていたとしたらどうだろう。桂花宮が火事になることが事前にわかっていたなら、沙夜を遠ざけるために一芝居うった可能性がある。
だって不自然過ぎるではないか。あんなに優しかった彼女が、突如として態度を変えたことには理由があるはずだ。一度意識してしまえばそうとしか考えられなくなる。
であれば、お宮に火をつけたのは蘭華なのか?
いや違う。違うはずだ。
「……そうだ。昨夜は皇帝陛下がここに──」
と、その発想に辿り着いた瞬間から、沙夜の膝が勝手に震え始める。
香妃は言っていたはずだ。許婚がいたのだと。そして
──暗殺。
その二文字が脳裏に明滅する。
香妃が侍女を巻き込んで、皇帝陛下の暗殺を企てた可能性がある。たとえば私室に火をつけて、もろともに死のうとしたのかもしれない。
一歩、二歩と後ずさる。いつしか全身にびっしょり冷や汗をかいていた。一刻も早くこの場から逃げなければと考える。
皇帝陛下の暗殺はこの国で最も大きな罪だ。荷担した者は極刑。しかも当人だけでなく、九族みな殺しになるのが常識だ。その手の話は後宮に入ってから何度となく聞いた。過去に実際にあった事例として。
下手をすれば、桂花宮に仕える宮女全員が処罰の対象になる可能性がある。であれば寮母が手枷をはめられている理由もわかるというものだ。
最悪の場合、沙夜どころか実家にいる祖父母も殺されるだろう。その恐怖がさらに足を震わせる。
「──おい。そこで何をしている」
「ひっ!?」
たまらず口から悲鳴が漏れた。思いがけない場所から声をかけられたからだ。
振り向くと、相手は帯剣した若き官吏だった。精悍で意思の強そうな目鼻立ちをしており、紫色の官服を
どこか高貴な血を感じさせる柳眉を釣り上げながら、彼は
「桂花宮の宮女だな? ……いや、君は」
「違います!」
答えながら踵を返した。反射的にだ。
駆け出した拍子に、その官吏が腕を伸ばしてきたのが見えた。それをするりとかわして来た道を逆走する。「待て」と彼が叫ぶが、いまさら止まれない。
濡れ衣であれ何であれ、たかが下級宮女の言葉に彼らが耳を貸すとは思えないからだ。穏便な取り調べなんて一切期待できない。この綜の都では、身分の低い者の命はひどく軽い。
本当に容疑が暗殺なのだとしたら、きっと苛烈な拷問が加えられるだろう。そうなれば認めてしまう。やっていなくても、やったと言ってしまう。
そもそも潔白を証明する方法はないし、
涙で視界が
後宮内に寄る辺なんてどこにもない。だから闇雲に走るしかなかった。
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