第一章 夜叉の目覚めた日(10)


 無我夢中で足を動かし、行き着いた場所は白陽殿だった。

 荒い息を吐きながら塀に飛びかかる。その動作を体が覚えていたのか、難なく乗り越えることができた。ほんのいつこくほどで帰ってきてしまったのだから当然か。

 もはや頭から爪先まで汗でずぶ濡れになっており、衣服も乱れていた。髪もぐしゃぐしゃだし顔も涙と鼻水でべしょべしょだ。我ながらみっともないが仕方がない。


「ハク様! ハク様はおられますか!」


 中庭を突っきって正殿の玄関に走り寄りながら、声の限り叫ぶ。

 だが返事はない。

 そうこうしている間にも、背後から大勢の足音が迫ってきていた。もう追いついたのかと肝を冷やしていると、「出てこい」という怒鳴り声と、門扉の鎖を解こうとする騒がしい物音までもが聞こえてくる。猶予はない。


「ハク様! お願いします! 力をお貸し下さいっ!」


 いちの希望にかけて、再び殿舎の中へと呼びかける。声をらしながら。

 妖異である彼らに何ができるのか、それはわからない。けれどもう頼れる相手は他にいなかった。縋り付くしかない。

 必死で呼びかけ続けるが、無情にも時間切れのようだ。

 後ろでガチャリと鎖が外される音がして、門扉がゆっくりと開き始めた。

 すると即座に、男たちが中庭になだれ込んでこようとする。

 そのときだった。


「──騒がしいな。何事だ」


 背後からすさまじい圧力を感じ、沙夜は振り返る。


「は、ハク様!」


 いつの間にか真後ろに立っていた美青年が、深衣の袖から細腕を伸ばし、門の方にかざすようにしていた。日の下で見る彼の美貌は、昨夜にも増してまぶしい。


「誰かと思えば沙夜か。朝から何をやっている? あやつらは何者だ」


 ふわぁと欠伸あくびをしながら、ハクはのんきに訊ねてくる。


「おかげで目がめてしまったではないか……。こんな早い時間にも拘らず」

「……いえ、もうかなり日は高いですけども」


 あまりの緊迫感の無さに呆れ、脱力してしまう。こんな人だっただろうか。

 しかしその間にも、近くから男たちのざわめきが聞こえてくる。ただし先程までの粗暴な胴間声ではない。一転して、どれも混乱の極致にあるような声だった。


「体が動かないだと? おい小娘、何をした!」

「奇っ怪な! これは妖術の類か?」


 門から一歩足を踏み入れた地点で、総勢八名ほどの武装した男たちが硬直していた。

 見れば、どの顔も驚愕に歪んでいる。恐らくは何らかの術により、動きが抑制されているのだろう。その束縛力は相当強力らしく、指一本動かせないようである。

 疑うまでもなくハクの仕業だ。やはり妖異だったのかと納得しつつ振り向いてみて、そこでたちまち沙夜はぎようてんした。

 絹のごとき白髪が流れ落ちるハクの額には、いつしか赤い紋様のようなものが浮き出してきており、その中央には見慣れないものがあった。

 それは、第三の眼だ。

 常人には存在しないその瞳から、はく色の薄ぼんやりとした輝きが放たれている。恐らくはその光こそが、追っ手を縛り付けているものの正体なのだろう。


「術を解け小娘! さもなくば──!」


 変わらず男たちは、口々に非難を叫ぶ。ただし彼らの敵意は沙夜にしか向けられていないようだ。つまりハクの姿が見えていないのである。やはり、人ならざるものの姿は都会の人には見えないのか。

 とはいえ沙夜にもハクの正体はわからない。これだけの人数を同時に拘束できるような力を持つ存在は、生半な妖異では有り得ない。鬼神である可能性すらある。


「して沙夜、こやつらをどうする?」


 ひどく酷薄な口調になってハクが訊ねてくる。


「昨夜も言ったが、約定に従い其方の望みを叶えてやる。こやつらを殺せと言うのなら、すぐに全員の首を落として見せるが?」

「その際は、自分にお任せを」


 殿舎の奥から静かな足取りでやってきたのは天狐。彼女は唇をぺろりと舌で潤して、やけに熱っぽい声を出す。まるで血を好む獣のように。


「一太刀で全てはね飛ばして御覧にいれます。さぞ綺麗でしょう。立ちのぼる鮮血の噴水は……」

「後始末も考えておけよ。門前が生臭くなってしまってはかなわん」

「ま、待って下さい」


 何という不穏当な会話だろうか。たまらず沙夜は制止の声をかける。

 二人とも人の生き死にには関心がないようだ。返答の如何いかんによっては、本当にこの場に死体の山を築き上げかねない。

 だが門前の男たちは未だに殺気立った視線をこちらに向けている。説得しても退いてくれそうにない。ではどうするか。沙夜にはこの先の運命を決する権利が与えられているらしいが……。

 落ち着け、とまずは自分に言い聞かせる。

 本音を言えば、いまでも恐ろしい。全て放り出して逃げ出してしまいたいくらいだ。

 ただしその衝動を押し留めるほどの強い欲求が、いまの沙夜にはあった。

 それは知りたいという気持ちだ。

 だって何もわからないままではないか。桂花宮で何があったのかも正確なところは知らない。香妃が本当に暗殺をもくんでいたのか、蘭華や侍女たちがどうなったのかも一切が不明だ。


 ハクにだって訊ねたいことがある。彼が母と交わした約定とは何なのか。どうして沙夜を助けてくれるのか。彼が一体どういう存在なのか。

 全てを知りたい。沙夜は心底そう思った。もはやその気持ちは恐怖を上回っていた。ならば怯えを捨てて胸を張るべきだ。何とかこの場を収めて、双方から話を聞かなければならないのだから。

 一つ息をついて心をなだめると、慎重に言葉を選びながら口から紡ぎ出していく。


「……ハク様。わたしの望みを叶えて下さるとおつしやいましたね?」

「ああそうだ。手短に言うがいい。我はもう眠いのでな。さっさとせよ」


 彼は即答気味にそう答えた。実にだるげである。

 手短に、というわけにはいかないだろうが、願いはもう決まっている。


「ではお願いします。わたしは話をしたいのです。この帯剣した恐ろしげな方々と。できればハク様を交えて」

「ふむ……?」

「どうかその場をお貸し願えませんでしょうか。落ち着いて話ができる場所をです。そして貴方あなたさまには見届け人になっていただきたいのです」

「むぅ、面倒なことを……」


 ハクは眉毛をねじ曲げてしゆんじゆんする素振りを見せたが、顎に手を当てて一さすりすると、思い直したように言う。


「ふむ、まあよかろう。昨夜の話も気になっていたからな。簪が投げ込まれた理由がわかるのならそれでいい。正殿の広間を使え」

「ありがとうございます。では一人だけ束縛を解いていただけますか?」

「わかった。どれにする?」


 露店で品を選ぶような軽い口調でハクが訊ねてきたので、沙夜は先頭にいた男性を指でさした。実は最初から、話をするなら彼だと決めていたのだ。


「──ぐっ!」


 ややあって、見えない拘束が解かれたのか、若き官吏が動き出す。

 彼はまず、玉のような汗が浮かんでいた額を手の甲で拭ってから、油断のない視線を沙夜に向けてきた。


「もう歓迎は終わりか? なかなか面白い力を持っているようだな。小娘の姿は偽りのもので、人外の化け物だったか」

「いえ、申し開きをさせていただきますが、わたしは妖異でも妖術師でもありません。貴方様の動きを封じていたのはわたしではなく、この白陽殿の主様ですよ」


 そう告げて沙夜は微笑み、言葉の最後に「緑峰様」と付け加えた。

 するとあちらもにやりと口角を上げる。


「……ふん。俺の顔を覚えていたか、田舎娘」


 正直に言えば、桂花宮の裏口で誰何された時点で気付いていた。

 忘れもしない。彼は科挙を受けたあの日に出会った、緑峰という青年なのである。

 確か枢密使だと名乗っていたはずだ。あのときはどんな役職かわからなかったが、沙夜とてこの一月遊んでいたわけではない。彼は枢密院と呼ばれる部署の長であり、皇帝直属の親衛隊──禁軍を統括する立場にある人物だと知っている。

 年齢は二十歳くらいか。なのに執政に相当する重要な役職を任されているあたり、家柄か能力のどちらかが突出しているのだろう。本来なら言葉を交わすことすら許されない雲の上の存在だが、気後れするわけにはいかない。


「ときにいま、白陽殿の主と言ったな」


 虎のようにたけだけしい目つきをしたまま、緑峰は訊ねてくる。


「それはつまり、我らの眼には映らない類のもの……。妖異鬼神の類だと考えていいのだな?」

「はい」とすぐさま沙夜は肯定する。「緑峰様も白陽殿の噂はご存じのはず。ここには鬼神様が棲んでおられまして、敷地内での無法は許さぬと仰っておられます。ですがみなさまが乱暴なことをなされないのなら、殿舎の中へ通してよいそうです。よろしければそちらでお話を聞かせていただけませんか?」

「話を聞く、だと? 君が俺にか。まるであべこべではないか」

「そうでもありません。だってわたしは何も知りませんから」


 可能な限り背筋を伸ばして、喉の震えをこらえながら沙夜は続ける。


「昨夜はこの白陽殿で過ごしておりましたので、桂花宮には戻っておりません。ですから緑峰様の問いには満足に答えることができないと思っております」

「なるほどな。それが事実なら仕方がないかもしれぬが」


 何か琴線に触れるものでもあったのか、彼は愉快げに少し声を弾ませる。


「桂花宮で何が起きたのか、全く知らないと言うのだな?」

「はい。ですからお話をお伺いしたく思っております」

「よかろう。なら代わりに、白陽殿の主殿との関係について聞かせてもらうぞ。もちろん無理は言わぬ。君の知りうる限りのことでよい」

「わかりました。わたしに答えられることであれば、何なりと」

「ならば主殿に伝えてくれ。お言葉に甘えてお邪魔する、とな」


 そこで一瞬、邪気のない爽やかな笑みが彼の口元に浮かんだ。


「はは、噂の夜叉殿に挨拶ができるなど、またとない機会だ。君が間を取り持ってくれるんだろう?」

「はい。ですがくれぐれも、手荒なことはなさらないで下さいね」

「わかっている。だから他の者の拘束も解いてくれないか」

「約束ですよ」

「ああ約束する。まさに鬼が出るか蛇が出るか……だな。みなもそれでいいか?」


 緑峰が振り返って呼びかける。後ろに続く衛兵──禁軍の兵たちはいまいち事態が飲み込めていないようだったが、主の命に粛々と従う素振りを見せた。

 その後、ハクに頼んで金縛りを解いて貰った後にも、彼らが襲いかかってくることはなかった。各々自分の体を見回し、拳を開いたり閉じたりして異常の有無を確かめるばかりだった。


 怯えた表情の者もいるが、緑峰は何やらわくわくしている様子だ。気楽でいいなと沙夜は思う。こちらは先程から胃がきりきり悲鳴を上げているというのに。

 薄氷の上を歩く緊張感から解き放たれ、沙夜はこっそりと息をつく。

 とりあえずは何とかなったらしい。しかし本番はこれからだ。



【次回更新は、2020年2月28日(金)予定!】

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