第一章 夜叉の目覚めた日(8)


てん。この娘を寝所まで案内してやれ。そして明日の朝になるまで決して部屋から出すな。監禁だ」

「はっ。承知いたしました。ではそのように」


 不穏とも思えるハクの言葉に平然と承諾を返した彼女は、沙夜とさほど変わらない年頃に見える。ただし、金髪だ。書物でしか知らないその髪色に、しばし目が釘付けになってしまう。

 肌の色素もやたらと薄く、脈が透けて見えるほどに白い。これまた貴族の子女にしか思えない容姿だったが、彼女は主君に敬意を捧げる武人のように、廊下に片膝を突いて受け答えをしていた。


「聞いての通りだ」とハクが言う。「今夜はここに泊まっていけ。明日になれば全てがはっきりするだろう。だから日が昇るまで簪は預かっておく」


 わからない。どういう理屈でそんな話になったのか。

 まだ切り上げられては困る。母とどういう知り合いなのかも聞いていないし、先程口にしていた約定の内容もわからない。形見の簪にどんな意味が込められているのかも謎のまま。だというのに、


「話は終わりだ。連れて行け」

「御意」


 天狐と呼ばれた少女がぐいっと手を摑み、沙夜を強引に引き寄せて廊下へ連れ出そうとする。


「ちょっ、あの、ハク様!?」

「静かにしろ。煩わせるな」


 言いつつ、少女はひょいっと沙夜を肩に担いだ。軽々とだ。

 無茶苦茶である。体格はほとんど変わらないというのに、どれ程の力持ちだというのか。彼女は何の重さも感じてはいないように歩き、板張りの廊下を進んでいく。

 不思議なことに、足音もしなければ板が軋む音もしなかった。揺られながら逆向きに流れていく風景を見渡しているうちに、もしかして夢でも見ているのではないかとさえ思えてきた。

 ぼんやりとかすみがかかったような頭の中で、妖異に化かされる気持ちというのはこういうものかと沙夜は思案した。


 翌朝は不覚にも、良い目覚めだった。

 どれだけ深く眠っていたのだろうか。格子窓の外には既に仄かな光が差しており、どこかの鶏舎から朝鳴きの声が聞こえてきている。

 背伸びをしながら体を起こすと、指先や足の先にまでぬくもりが残っていることに気が付いた。充実感が体中を満たしている。何故かと考えるまでもなく、昨夜ゆうべまでとは寝床が違うからだ。


 寝所の中央に置かれたしようは、全体に花模様が彫刻されたごうしやな造りで、紛れもなくかつての皇帝の寝台だろう。沙夜などには一生縁がないほど高級なものだ。しかも布団の下に何枚もの毛皮が敷き詰められていて、ふかふかと柔らかく肌触りも心地良い。まるで奇跡のような寝床であった。


「これは駄目になるやつだ……。早く起きないと」


 居心地が良すぎて、このままでは根が張って動けなくなる気がする。人間を駄目にする魔性の寝台だとさえ思う。惜しくはあるがこれ以上寝てはいられない。未練を振りきるために軽く首を振る。

 それから部屋の中を見回してみたが、昨夜の少女の姿はどこにもなかった。

 天狐と呼ばれていたあの女の子は、りよりよくに任せて沙夜をこの部屋に押し込んだが、それだけでは済まさなかった。「おまえは瘦せてるな。寒いだろ」と言って、どこからか大量の毛皮を持ってきて、寝床に敷いてくれたのである。


 普段、寮の堅い床で眠ることを強いられていた沙夜に、そのぬくもりの誘惑は強烈だった。あらがう術もなく吸い込まれるように布団に入ると、天狐は当然のように隣に潜り込んできて添い寝をしてくれた。寡黙かつ真顔のままで。

 ぶっきらぼうなのか優しいのかわからない。当初は混乱したが、彼女の体温はとても高く、初対面だというのに隣にいて不思議と心が安まった。だからすぐさま眠りに落ちてしまい、目を覚ますと朝だったというわけだ。


「──そういえばここ、夜叉が棲んでるって言われてるんだっけ」


 いまさらその事実に思い至った沙夜は、苦笑しながら架子床から抜け出した。

 あのハクという青年も、天狐という女の子も、人でなかったとすれば納得がいく。こんなはいきよに棲んでいることも、会話がまるで嚙み合わなかった理由もだ。

 部屋の壁際には鏡台が一つだけあった。磨き抜かれた黒檀が朝日を受けて輝いていたが、そこに白い象牙の簪が置かれているのが目に入る。

 どうやら眠っている間にハクがこの部屋に来ていたようだ。日が昇れば簪は返す、との言葉は本当だったらしい。

 沙夜は思い出し笑いをしながら簪を胸元にしまった。本当に母の知り合いだったのかもしれない。それで一夜の夢を見せてくれたのかも……。


 蘭華との諍いによって壊れそうだった心も、いまは不思議と晴れやかになっている。

 ただしお腹は空いており、数歩も歩かないうちにぐうぐう鳴り出した。

 昨日は夕方にうすがゆと小魚を口にしただけだ。寮に戻って食事がしたい。蘭華には戻ってくるなと言われたが、やはりあれが本心からの言葉だったとは思えない。

 ちゃんと真意を訊ねてみよう。その結果、より深く傷つくことになるとしても。


「よし。行くか」


 沙夜はいつもの前向きな精神を取り戻していた。一度頰を叩いて気合いを入れ直すと、部屋を出て廊下を歩いていく。朝の光の中で見る殿舎の姿は、昨夜の不気味さとは打って変わって、どこか神聖さに包まれているように感じられた。

 しばらく誰も手入れなどしていないのだろう、黒塗りの柱にはつたが這っているし瓦の隙間にもこけが生えている。だが田舎育ちの沙夜にとってはその景観はどこか、心に安らぎをもたらしてくれるようだった。

 本当に夢のような時間だったな、と思いつつ塀をよじ登って頂点に立つと、最後に漆黒の殿舎に向けて頭を下げた。


 ──化かしてくれてありがとう。


 心の中で礼を言って、体の向きを反転させる。もう振り返らない。

 今日も一日が始まる。きっと昨日と何も変わらない一日がだ。先を考えれば憂鬱になるが、いつまでもここに留まってもいられない。

 何よりもそろそろ空腹が限界だ。寮に戻っていつもの貧しい食事を胃に流し込もう。そう心に決めて白陽殿をあとにした。



【次回更新は、2020年2月26日(水)予定!】

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