第一章 夜叉の目覚めた日(7)


 有り得ない。この世のものとは思えないほど美しい。一言で言うならおぞをふるうほどの美青年である。

 細面の相貌にはすっとした鼻筋が通り、切れ長な目はれいな印象を抱かせ、銀色に近い白髪は腰まで長く伸びている。それら一つ一つの要素が、身に纏う赤い深衣に施された金の刺繡と相まって、体全体から発光しているかのように輝いて見えた。


 何より特徴的なのは、その瞳であろう。深い蒼を宿した一双のめいぼうは、透徹した冬の空のごとく清く澄み渡っている。あの目で見つめられると、自分がどれだけわいしような存在なのかをいやおうなく思い知らされる気がした。

 確認するまでもない。とても高貴な身分の男性に違いない。そう瞬時に判断すると、沙夜は跪いて直ちに許しを乞うた。


「す、すみません! まさかここに住んでおられる方がいると思わず……! 勝手に立ち入ってしまって本当に──」

「いや、構わない」


 思いがけず、青年は穏やかな声で言った。


「それよりこの簪だ。これを持ち込んだのは其方そなたか?」


 問い掛けられて顔を上げた。一拍置いて再び目を見開く。何故かというと彼の手には、あの猫がくわえて逃げたはずの簪が握られていたからである。


「もう一度く。これは其方のものか?」

「は、はい。それは母の形見でして、できれば返して頂けますと……」

「母の形見だと? 誠か?」

「え……。はい」


 肯定を返したが、その直後に自ら目を逸らしてしまった。おまえのようなはしたが持つような品ではないと言われている気がして、恥ずかしくなったのだ。

 けれど続けて青年が発した言葉は、全く予想外のものだった。


「こちらを向け」


 言われて少しだけ視線を戻したところで、顎をくいっと持ち上げられる。知らぬ間にすぐ目の前まで彼が歩み寄ってきていた。

 普通に呼吸しているだけで息が吹きかかるような距離である。直視すると美形過ぎて脳の芯がしびれてきた。沙夜の顔は既にがったように赤くなっていたが、その間にも容赦なく、彼の真剣なまなしが突き刺さってくる。


「……ふむ、確かに面影がある。もはや疑う余地はなかろうな」

「あ、あの、無礼があったことは謝罪しますので」

はもうよい。面倒なだけだからな。それよりも」


 彼はようやく沙夜を解放し、静かに立ち上がると部屋の中央に向けて歩く。


「簪が戻ってきてしまったのなら、こちらもやくじようを果たさねばならんか」


 物思いにふけるような顔をして、月明かりの下で目を細める彼。

 荘厳ささえ感じるその光景に見とれてしまい、口を半開きにしたまま言葉が出てこなくなった沙夜に、彼はやがてせいひつな声色で言った。


「ハクだ。我のことはそう呼ぶといい」

「……はい。ハク様」

「様はいらんがそれでいい。其方の名前は何という?」

「わたしの名前、ですか」


 そうだ、とうなずく彼に「沙夜と申します」と答える。姓を名乗らなかったのは、後宮内の慣例に従ったためだ。姓を明かすだけで実家の権力をちらつかせる行為になってしまう宮女もいるからである。ただし、ハクに気にした様子はない。


「そうか。では母親の名は〝よう〟で間違いないか?」

「は……はい。もしや母のお知り合いなのですか?」

「まあな。陽沙が後宮で働いていたということは知っているか?」


 訊ねられ、しばしぜんとしたが、その意味を理解してぶんぶんと首を横に振る。


「し、知りませんでした。母がここに……!? 本当なのですか?」

「となれば、陽沙は死んだか」


 会話が微妙に成立していない気がしたが、彼の表情にはっきりと影が差したのが見えた。なので何も言えなくなる。

 だが数瞬後、その憂いがまるで気のせいだったかのように、ハクは涼しげな顔つきに戻って窓際の椅子に腰を下ろした。そしておうように足を組む。


「面倒なので二度は言わんぞ。其方が持ち込んだこの簪は、特別な意味をもつものだ。簪を持つ者が白陽殿に現れた瞬間から、我にはとある義務が生じる。そういう約定が結ばれている」

「約定、ですか?」

「もはや人の世に関わることもあるまいと思っていたが……。数奇なものよな」


 まるで返答になっていない。やはり話は嚙み合わないようだ。しかしあちらには特に歩み寄る気もないらしく、溜息交じりに「ところで」と言葉を続ける。


「どうして簪を投げ込むような真似をしたのだ?」

「え?」かすかに不審なものを感じた。「何故知っておられるんですか?」

「見ていたからだ、一部始終をな。表で言い争う声も聞こえていたが、事情がまるでわからん。面白そうだから話してみよ」

「……いえ、別に面白くはないと思いますが」


 指先にささったとげほどの違和感が、徐々に大きくなっていく。

 見ていた? 聞いていた? 一体どこでだ。それなら話しかけてくれれば良かったではないか。猫を追いかけて右往左往している様を、傍観していたという意味にしかとれない。

 いや、考えてみればおかしなことばかりだ。どの部屋にも大量のほこりが積もっていたし、人が住んでいる痕跡などまるでなかったはずだ。そもそも、明かりもつけずに彼はここで何をしていたのか。


「いいから話せ。早くしろ。時間の無駄だ」


 はい、と沙夜は答える。ハクの正体は不明だが、追及するには心の準備が足りない。

 なので彼の様子を観察しつつ、これまでの経緯を話して聞かせることにした。

 簪を投げたのは蘭華という女性であること。白陽殿の門前で言い争い──いや一方的に責められた挙げ句そうなったのだと話すと、彼はわずかに首を傾けた。


「──仲良くしていた蘭華という女が突然ひようへんし、理不尽とも思える言動を繰り返して、最後には簪をここへ投げ込んだと。なかなか興味深い話だな」

「……はい。わたしもいま説明しながら、おかしいと思いました」


 一つ一つの因果関係に不自然さはない。しかし全体として見れば明らかにおかしい。蘭華が怒った理由はわかる。簪を投げる理由も本人が説明していた。しかしそれらの事実がうまく繫がらない。一貫性がない。

 簪を香妃に献上することが気に入らないなら、沙夜に返さなければいいだけではないか。元々蘭華に預けていたのだから、如何いかようにもできたはず。わざわざ白陽殿に連れてくる必要などない。


 となれば彼女は結局、何がしたかったのだろうか。

 沙夜は悩む。するとハクも口元に手を当ててふうむとうなった。そんな仕草すら優雅に見えるのが何だか悔しい。そう思っていると彼は口を開いた。


「蘭華とやらは、『桂花宮に帰ってくるな』と念を押したのだったな? ならば試してみよう」


 口にするなり、ハクはぱちりと指を鳴らす。

 すると直後、


「──お呼びでしょうか」


 背後から誰かの声がした。体がびくりと跳ねてちょっと浮く。

 まったく足音などしなかったし、気配もまるでなかった。だというのに、いつの間にか廊下に誰かが跪いていた。見ると、灰色のほうふくに身を包んだ女性のようだ。

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