第一章 夜叉の目覚めた日(6)


 竹林の中なのでわからないが、どうやら風が強く吹いているようだ。ささの葉がざわざわと耳障りな音を立てている。絶望に染まった沙夜をせせらわらうように。


 気付けば両のから、生温かいしずくがこぼれ落ちていた。

 失敗してしまった。蘭華を怒らせてしまった。思い上がった行為をした結果、嫌われてしまった。その事実がたまらなく重くて、後悔に胸が締め付けられる。

 いまにして思えば、後宮の中で安らげる場所なんて、最初から彼女の隣にしかなかった。それだけに先程までの出来事が悪夢のように思えてならない。


 だが悲しいかな、全ては現実なのだ。


 体に力が入らなくなり、なす術もなくその場にへたり込んだ。いつしか周囲はより深い闇に包まれており、月も薄雲に隠されてしまっている。けれど、逃げ出すこともできない。もはや頼るべき人も、帰るべき場所もないのだから。

 沙夜には失うものすらない。そう考えてさらに気分が落ち込んだが、一つだけ残っているものがあると思い直した。それは最後に蘭華が示した選択肢だ。


 ──簪を、拾いにいかないと。


 いまとなってはあの簪だけが、唯一残された大切なものだという気がした。

 いや違う。あれは母との約束の象徴だ。大望を抱いて上京したあの日の自分との、最後の接点と言い換えてもいい。

 つまり理屈ではない。きようだった。意を決した沙夜は、襦裙の袖口で乱暴に目元を拭う。そして奥歯を嚙みしめながら前方に目を凝らす。


 闇をはらんだ白陽殿は、まるでその殿舎自体が侵入者を拒むがごとく、周囲に重苦しい威圧感を放っている。視界の中でそこだけ景色がねじ曲がっているようだ。なるほど人喰い鬼──しやが棲むと噂されるだけのことはあるが、いまはただの流言だと自分に言い聞かせることにした。

 恐らくは火事で建物の一部が焼失し、倒壊する危険性があるのだろう。だから誰も近づかないよう噂を流した者がいるのだ。ただそれだけだと信じ込む。


 ちゆうちよすれば動けなくなるだけだ。思考も迷いも捨て去り、膝を叩いて立ち上がるなり一歩進んだ。あとは前に体重を傾けるだけで、すぐに門まで手が届く。

 とはいえ、門を開けることは不可能のようだ。鎖が引き手に何重にも巻かれ、厳重に封じられている。ただ塀の高さはそれほどでもない。古めかしい造りの土壁でしかない。あれなら何とかよじ登ることができそうである。


 よし、と沙夜は気合いを入れると、墨汁をぶちまけたような黒い塀に飛びつく。

 壁の表面に触れるとざらりとしていた。下手をすると漢王朝の遺物かもしれない。ただ老朽化のせいかところどころにくぼみがあった。そこへ爪先を引っかけると、労せず塀の上に体を持ち上げることができた。恐怖を感じる前に向こう側に飛び降りる。


 これでもう後戻りはできなくなった。仮にも皇帝が寝所として使っていた場所に忍び込んだことがバレたなら、懲罰は免れないだろう。だが簪を取り戻してすぐに外に出れば問題ないはずだ。幸い、軽く放り投げられただけなので、門からそう遠くない場所に落ちているだろうと見当はつく。

 視界は変わらず暗いが、沙夜は田舎育ちなので多少は夜目がきく。加えて象牙作りの簪は白くて目立つはず。そう考えてきょろきょろと首を回しつつ、雑草が生え放題の中庭に歩みを進めていった。


 どこだ。近くに落ちているに違いない。どこに──


 視線を巡らせていると、そこで。


「ひっ」


 何かと目が合って思わず、口から悲鳴がこぼれ落ちた。

 闇に煌めく、すいにも似た輝きを持つ二つの瞳は、当然人間のものでは有り得ない。

 ならば鬼かというと、どうやらそうでもなさそうだ。

 門から伸びる長い影の中で、象牙の簪を口にくわえてこちらをへいげいしていたのは、小さな猫だった。

 体毛は銀に近い白色で、タンポポの綿毛のようにフサフサとして丸っこい。さらに鼻先から広がった黒毛が両目を覆っているところが、どことなくあいきようを感じさせる。たぬきと猫の中間のような外見だ。言うなればといったところか。


「──あの、それ、返してくれる?」


 そう呼びかけてしまったのは、冷静ではなかったせいだろう。

 もちろん猫に言葉がわかるはずがない。一つ呼吸を落ち着かせて、胸の鼓動をなんとかなだめる。恐れる必要はない。相手はただの動物なのだから。


「食べ物じゃないから、ね? 良い子だから返し──」


 言い終わるか終わらないかのうちに、猫は素早く駆け出した。簪をくわえたままで。


「ちょっ」


 からすじゃあるまいし、光り物を集める趣味などないだろうに。

 だが文句を言っても仕方がない。咄嗟に沙夜は追いかけようとする。


「待って!」


 が、猫は止まらない。しかも俊敏である。

 瞬く間に中庭を突き抜けて正殿への階段を駆け上がっていく。扉は半開きになっており、そこから中へと入っていったようだ。あとに続いて突入する。

 当然ながら内部には濃密な暗黒が湛えられていた。ただ構造は桂花宮と同じなので、手探りでも何とか進めそうだ。


 ちなみにこれは白陽殿に限った話ではなく、都の建造物は大抵が同じ構造をしているようだ。まず南に大門があり、そこを抜けると中庭。正面に正殿があって、奥には寝所や裏庭などが配置されている。基本はこの通りで、綜の都自体もこれを拡大したものだ。伝統上、合理的と判断された建築様式なのだろう。

 だから迷うこともない。正殿の奥に踏み込むとほこりが舞い上がり、えた臭いが鼻に飛び込んできたが、これだけ荒れ放題ならもう遠慮はいらないだろうと逆に覚悟が定まった。


 戸をこじ開け、床板をきしませながらどたどたと走り、しらみつぶしに部屋を捜索していく。わざと大きな物音を立てているのは、猫がいれば足音を立てて逃げ出すはずだと思ったからだ。驚いた拍子に簪を落とすかもしれないし、繰り返せばやがて逃げ場所はなくなっていくだろう。

 何も馬鹿正直に追いかけっこをする必要はない。少しずつ堅実に前に進めばいずれ結果は出るはずと信じた。没頭するうちにいつしか恐怖心も和らいでくる。

 正殿を抜けると火事で焼け落ちた区画があった。れきの中を入念に覗き込み、猫がいないことを確認すると、再び渡り廊下に戻って奥へ進んだ。


 するとやがて、一際瀟洒な造りの建物が見えてきた。あれがかつて皇帝が使っていたという書斎なのだろうと推測する。

 入口の戸が少し開いているところを見るに、猫がここへ入っていった可能性は高い。けれど詰めを誤り、窓から逃げられでもしたらことだ。荒くなっていた息を深呼吸でなだめ、万全の態勢で戸に手をかける。

 音を立てぬよう慎重に引き、中を覗き込むなり沙夜はぴたりと息を止めた。


「────っ」


 驚きのあまり一瞬、雷に打たれたように硬直してしまった。当然のごとく無人だと思っていたからだ。

 しかし違った。なんと部屋の中に人影があったのである。

 窓から月光が差し込み、あおく染まった書斎の片隅に一人の男性の姿があった。とうで編まれた椅子に腰かけて足を組み、物憂げな表情で肘掛けに頰杖を突いている。

 そんな彼を一目見て沙夜は驚愕し、二目見たときには心を奪われていた。



【次回更新は、2020年2月24日(月)予定!】

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