第一章 夜叉の目覚めた日(5)
やがて夜の
明かりに彩られた朱塗りの宮殿は、想像していた通りの鮮烈な印象を沙夜の視覚に刻みつけた。灯籠の表面に施された緻密な装飾が、廊下や柱に影となって複雑な紋様を描き出し、本能に訴えかけるような奥深い美を生み出している。
香妃は厨房に入って、自ら
夜のお勤めとはつまり、香妃の調理を補助することと、それが終わった後に彼女の身支度を手伝うこと。さらに事後の後片付けである。
沙夜にも何か手伝えることはないかと、厨房の周りをうろうろとしてみたのだが、それがいけなかったようだ。香妃の傍らに控えていた蘭華が、こちらを認めるなり目つきを
「来なさい」
「え? どこへ」
「いいから来なさい!」
何の説明もなく彼女は沙夜の腕を
蘭華はなんと、そのまま宮殿の裏口を抜けて沙夜を外へと連れ出したのである。
行く手は見渡す限り暗黒が支配する空間だ。「どこへ行くんです」と再び訊ねたが返答はない。ただただ彼女の爪が二の腕に食い込んで痛かった。
やがて目が慣れてきたのか、月光に照らされた道が青く浮かび上がって見えるようになった。だが道の先は
不気味ではあるが、ここでは特に珍しい景観ではない。
元々は漢王朝の遺跡を下敷きにしているそうだが、山麓のなだらかな傾斜に沿って建物が築かれているため、丘もあれば川もあるし、沼地も竹林もある。まるで都市全体が巨大な箱庭だ。
「蘭小姐、この先は」
「黙ってついてきな」
やはり立ち止まることは許されないようだ。
するとしばらくして、蘭華が目指しているであろう漆黒の殿舎が見えてきた。
竹林の中でもその場所だけが開けており、空からは月が
「──
ようやく足を止めて振り向いた蘭華は、神妙な声で問い掛けてきた。
沙夜はただうなずく。白陽殿は、歴代の皇帝が寝所兼書院として使っていたとされる建物だそうだ。だが十年程前に火事によって半焼しており、それからは久しく誰も足を踏み入れていないはずだった。
「
「噂は聞いていますけど……」
改めて殿舎を見上げると、ごくりと喉が鳴った。
あながちただの噂とも思えない。先程から肌が
妖異の姿が見える沙夜にとっても、怖いものは怖い。むしろ鋭敏に感じ取れるからこそ怖いのだ。それに人ならざるものが味方とは限らない。この世には決して近付いてはいけない存在もいる。
「ら、蘭小姐。もう帰らないと夜のお勤めに間に合わな──」
「気安く名前を呼ぶんじゃないよ」
ぞっとするほどの冷たい声で拒絶を返すと、蘭華は
「勘違いしているようだから言っとくけどね。ちょっと甘い顔見せたらつけあがってさ、アンタ何様のつもりなの? ここへ来てまだ一月の見習いのくせに、夜のお勤めだなんて早過ぎるんだよ。あたしの頃は二年はかかった」
「そ、そうなんですね」
ごめんなさい、とすぐに頭を下げる。
沙夜は完全に
「わかってるのかい? なんで怒られているのか」
「……いいえ。すみません」
「ならわかるようにしてあげる」
言いつつ蘭華は、襦裙の胸元から何かを取り出してみせた。
月光をきらりと弾いたそれを一目見て、沙夜はぎょっとなる。
母の形見の簪だ。
「他の侍女たちも言ってたよ」と彼女は続ける。「なんだあの子はってさ。香妃様に
「ち、違います。そんなつもりじゃ」
「何も違わないよ。みんな地道に努力して、失敗を重ねながら一つずつ仕事を覚えて立派な宮女になっていくんだ。一足飛びに進む方法なんてない。なのにアンタはズルをしようとしたってわけ」
落ち着き払った声ではあったが、蘭華の表情はさらに凄惨なものになっていた。
「ズルなんて、本当にそんなつもりじゃ」
「言い訳はいらないよ」
「言い訳じゃ……、ない……です」
否定を繰り返す。しかし本当にそうだろうか。あのとき沙夜の頭を過ぎった考えは、ズルだと言われればそうなのかもしれない。
沙夜は自身の夢のために一生懸命だっただけだ。それを実現する手段があるのなら手を伸ばすしかなかった。けれど同じ条件の上で頑張っている他の宮女からすれば、意地汚い所業のように見えたかもしれない。
間違っていたのは自分の方だったのか。沙夜はついに気勢をくじかれ、そこで押し黙ってしまう。すると、
「こんなものはなくなった方がいいんだよ」
驚くべきことに、蘭華は腕を大きく振るって、簪を空高く放り投げたのである。
それは闇夜の中でもきらきら輝きながら白い孤を描き、白陽殿の敷地内へと落下していく。漆黒の門と石垣に囲まれた、恐らくは人ならざるものの領域へと。
「なっ」
あまりのことに
それを眺めつつ鼻で笑い、蘭華は「アンタが悪いんだよ」と言い放った。
「別にいいだろ? アンタ妖異とは友達なんだからさ。人喰い鬼なんて別に怖くないだろう? ……拾いに行くなら好きにしな。どうせ使われてない建物だからね、誰かに見つかる心配もない。ただし──」
畳みかけるように繰り出される言葉に、声を失って口をぱくぱくとさせるが、それでも彼女は厳しい態度を崩さない。
「桂花宮に戻ってくることは許さないよ。正直、目障りだからね。転属願いはあたしの方で出しといてやるから、明日になったら
一息にそう口にして、最後にもう一度「わかった?」と念を押してくる。
勢いに押されて首肯すると、「じゃあさよなら」と言い残してくるりと背を向け、彼女は暗闇に包まれた道をさっさと戻っていく。地面を
──どうして。
沙夜は胸の中で何度も同じ言葉を繰り返す。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。本当にどうして……。
姉のように慕っていた蘭華に容赦なく罵られ、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます