第一章 夜叉の目覚めた日(4)
蘭華を初めとする六人の侍女は、静かに佇んでいるだけだ。となると周知の事実なのだろう。だから顔色一つ変えていないに違いない。
だが、にわかには信じられなかった。一体どんな事情があって後宮に来ることになったのか。許婚はどうなったのか。どうして〝いた〟と過去形で言ったのか。
気にはなるが、やはり聞けない。聞いてはならないと沙夜は思った。
侍女たちが一斉に口を
「──ああ、もう一つ聞きたいことがあったのよ」
重い雰囲気が漂い始めたところで、香妃がぱんと掌を叩いた。そして鏡台の
「ねえ沙夜。この
先程の驚愕が尾を引いていたせいもあって、「それは」と声が震えた。
香妃が取り出した簪は、沙夜が唯一実家から持ってきた私物。母の形見だった。
「ど、どうして香妃様がそれを?」
「ごめんね。
戸惑う沙夜は、壁際に立つ蘭華に目を向ける。非難を込めて。
普段生活している寮に私室はない。私物を置く場所も無いし、仮に盗難に遭っても訴え出る場所もない。だから一番信用できる蘭華に預けていたのだ。必要ならば身につけてもいいと言い添えて。
「小蘭を責めないで」と香妃。「少し聞きたいだけなの。これ、凄く綺麗な細工よね。この白さは象牙かしら。柄にはめ込まれている赤い宝石は何? とても高価な代物のようね。どこで手に入れた物なの?」
「その簪は母の形見ですので、かなり古い物です。母がどこで手に入れたのかは知りません。物心ついたときにはうちにありました」
「へえ、そうなの……。細工師がわかれば紹介してもらおうと思ったんだけど」
言いつつ、窓から差し込む日の光に透かすようにして、香妃はきらきら輝く瞳を簪に向けていた。その仕草を見ればわかる。とても気に入っているようだ。
──どうしよう。献上すべきだろうか?
頭に浮かんできたその思いつきを、心を落ち着かせながら吟味していく。
あの簪は沙夜にとっては大切な宝物だ。けれど献上することによって香妃の覚えが良くなり、今後の労働環境が劇的に変わる可能性もなくはない。
それが夢に繫がる道になるのならば、どうだろう。必要な犠牲かもしれない。
後宮内においても外部の権力者の影響は色濃く、貴族や商家の娘ともなれば最初から妃か侍女の身分で入ってくる。だから庶民の出である沙夜に出世は難しい。ならば手段を選んでなどいられないのではないか。そんな気がした。
──ごめんね、母さん。
目的はあくまで女官を目指すことだ。だから邪道ではなく正道。考えは決まった。あとは実行に移すだけ。
「あ、あのう香妃様。その簪ですが、もしよろしければ──」
「ちょ、ちょっと沙々っ!」
ぐいっ、と不意に首根っこを引っ張られた感覚があった。
痛みに振り返ると、待ち構えていたのは焦燥の色に染まった蘭華の瞳だった。
「すみません香妃様! この子気分が悪くなったみたいなんで、寮に連れて行きますんでっ!」
「えっ。ちょっと小蘭……」
突然のことに驚く香妃をよそに、蘭華は一方的に言って沙夜を
どうしたというのだろう。訳もわからずそのまま部屋を出て、後ろ向きのまま廊下を逆戻りさせられ、中庭へと続く階段を降りるよう強制された。それから植え込みの暗がりに連れ込まれる。
「さっき、何を言おうとしたの?」
「え……? わたしはただ、香妃様に簪を差し上げようと」
「軽々しくそんな真似するんじゃないよ!」
彼女はいきなり怒鳴った。
「アンタ、あたしがどんだけ……。大体、あれは母親の形見だって言ってたでしょうが! 香妃様に見せたのはあたしも悪かったけど、何でそんなに簡単に献上しようとするの!? 馬鹿じゃないの!?」
「馬鹿って……。そんなこと言われても」
たまらず目を
そりゃ個室が欲しいとか、暖かい寝床で眠りたいとか、お腹いっぱいご飯が食べたいなとも思った。簪を献上すればそれが叶うかもしれないとは思った。でも浅ましい考えだったとは思わない。
「わたしの私物をどうしようと、勝手じゃないですか」
責められるのは理不尽だと感じ、そう口答えをする。
「はあ? ……あっそう。反省はしないってのね?」
正論を返したつもりだったが、蘭華の怒りをさらに
彼女の叱責はその後も続き、最後には「夜のお勤めには来なくていい」とまで言い放って、強く沙夜を突き放したのである。
たった数刻前には、にこやかに言葉を交わしていたはずなのに……。
何が
【次回更新は、2020年2月23日(日)予定!】
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