第一章 夜叉の目覚めた日(3)

 洗濯おけを片付けて宮殿内に戻った沙夜に、裾長のじゆくんを着た宮女が声をかけてきた。とつに返事はしたものの、突然のことに鼓動が速くなる。


 香妃は桂花宮の中では一番の上級妃であり、九嬪の身分にある人物だ。

 もちろん皇后や四夫人よりも格は下がるが、最近は三日にあげず皇帝陛下が通い詰めていることから、ちようの大本命とされている方である。

 また、教育係である蘭華が侍女を務めているため、沙夜にとっては所属長に近い立ち位置にいるのが香妃だ。となれば人事に関する話かもしれない。

 もしかすると、劣悪な生活環境から抜け出せる機会が訪れるかもしれない。そんな期待と不安を半々に抱きつつ、いそいそと香妃の私室へと向かって歩く。

 そして戸の前に立つと、一度手早く身だしなみを整えた。下級宮女の服は白一色の襦裙と決まっている。帯の位置を胸に合わせ、軽く裾を払って準備は完了。


「失礼しますっ!」


 声を上擦らせながら戸を開けると、ただちに強い匂いがこうをくすぐった。

 奥から漂ってくるのがわかる。何とも芳しい香気が──


「よく来てくれましたね。さ、そこへ座って」


 そう言ってにこやかに微笑んだのは、目もくらむほどの美女だった。

 白梅がしゆうされたさくしゆうの上衣も、薄紅の生地に金がちりばめられた下裳も、起伏豊かな肢体が描く滑らかな曲線を強調しつつも清楚さを醸し出している。背景に鎮座するしようしやな鏡台と合わされば、そのままで一枚の絵画のようだ。


 やや緊張しながらも「はい、香妃様」と答えて寝台近くに置かれた丸椅子に腰を下ろした。が、すぐさま失態に気付く。香妃とは正式な名前ではないのだ。本名はれいというそうだから、麗亞妃様と呼ぶのが正しい。ただし宮中でそう呼ぶ者はいない。何故かというと、それほどまでに彼女の肌から立ち上る香気は独特だからだ。


 きっと香木をいて衣服に香りを染み込ませているのだろうが、それだけではない。彼女が生まれ持つ体臭とそれが合わさり、このわく的な匂いが形成されているのだと推察する。

 こうして近くで嗅いでいるだけで脳がとろけそうになるが、いまは謝罪が先決。

 沙夜は慌てて腰を浮かして頭を下げたが、香妃は笑みを湛えたまま「いいのよ別に」と優しい声を出す。


「あなたもここへ来て一ヶ月ですものね。愛称で呼んでくれるほど仕事に慣れてくれたってことでしょう? 嬉しいわ」

「すみません。まだ至らないところばかりで、蘭小姐にも迷惑をかけっぱなしで」


 沙夜はちらりと横に目を向ける。部屋の壁際には、香妃に仕える六人の侍女が整列していた。もちろんその中には蘭華の姿もあるが、どうやら香妃と呼んだことを怒っている様子はないようだ。


「まったくですよ。危なっかしくて見てられないんですから」


 侍女としての正装──香妃の衣装にあつらえたような桃色の襦裙を着た彼女は、丁寧な所作をとりながらも普段通り明朗な発声を響かせる。


「今日だって洗濯物の黒ずみがとれなくて、涙目になってましたからね」

「あらそうなの? ふふふ、大変だったわね。誰かかまどの掃除でもしたのかしら」


 口元に手を当てて、ころころと上品に笑う香妃。


「あまりいじめちゃ駄目よ? 沙夜、何かあったらすぐ私に言いなさいね?」


 すると「いじめたりなんてしてませんよ!」と蘭華は不満げな声を上げた。

 そんなふうに気安く言葉を交わす二人を見て、沙夜は緊張が和らいでいくのを感じた。他の侍女たちも柔らかく微笑んでおり、室内が優しい空気に包まれていく。

 香妃の年齢は二十五歳だったはずだ。なのに年の差も身分の差も感じさせず、下級宮女にも分け隔てなく接してくれる。仕える相手が彼女で良かったと心底思う。


「みんなとも仲良くやれそうね。あなたにもそろそろ夜のお勤めを手伝って貰おうと思うの。いいかしら?」

「も、もちろんです! 精一杯がんばります!」


 腹に力を込めて沙夜は宣誓する。その言葉を待っていた。

 夜のお勤めとはつまり、皇帝陛下が桂花宮を訪れた際のお出迎えである。

 基本的に宮女の仕事は日が昇ってから落ちるまでだ。ろうそくもただではないので夜間の仕事は無いのが普通。しかし寵妃の宮だけは違う。ごとのお渡りの際には、宮殿のどうろうの全てに明かりをともし、陛下をお迎えしなければならない。


 あかい灯火に彩られた桂花宮は、それはもう綺麗なのだろう。今までは裏手の寮から遠巻きに見るしかなかった華やかな光景を想像し、沙夜はうっとりとする。

 何よりも、夜も蘭華と一緒にいられるというのが素晴らしい。感激に浸りつつふと横に視線を向けると、そこで意外なものが目に入った。

 どうしてだろうか。蘭華の表情が一転して引き締まったものになっていたのである。目を細めて口元を結んで、こちらを見ているのに違うものを見ているような……。


「そうそう」


 香妃が何かを思い出したように言った。


「この間あなたに手紙の代筆を頼んだでしょう? あれがすごく好評でね。どこの高名な書道家の作かと聞かれたくらいなのよ。凄いわね」

「いえ、そんな」


 沙夜は恐縮する。顔が徐々に火照ってくるのを感じていると、香妃は続けた。


「字は誰に習ったの? 本当に高名な書道家さんだったりするのかしら」

「いえ、母からです。子供の頃に叩き込まれました」

「へえ、凄いお母様ね。沙夜の実家は商家だと言っていたかしら」

「はい。ですが商家とは言っても、田舎の小さな塩問屋でして……」


 長老である祖父が里の収穫を取りまとめていたのだが、岩塩が物々交換に使えるという理由から重宝されており、麓の街と交流する上で塩問屋を名乗った方が都合が良かっただけだ。だから名目上はそうなっている。


「羨ましいわ。私なんて薪売りの娘よ? 学問なんて全然、これっぽっちも縁がなかったんだから」


 その言葉があまりにも意外に感じられ、「本当ですか」と口に出してしまう。だとしたら香妃は、ただ美貌のみをもって今の地位を築いたことになる。

 妃に求められるものは第一に家柄だという。世継ぎを産んで皇家に名を連ねる以上、おかしな出自の女であっては困るからだ。そういった事情から後宮には、皇家と外縁関係を結びたい貴族や商家の娘が送り込まれてくることが多い。なのに香妃は、上級妃にもかかわらず平民の出なのだという。これは凄いことである。


 彼女は一からがって寵妃の座を射止めたのだ。改めて憧れるとともに、到底自分では届かないと考えてしまう。沙夜にはあんなに長くてあでやかな黒髪もなければ、透けるように白い肌もない。ましてやこの芳しい香気など望むべくもない。

 そんな憧れの視線を感じ取ったのか、香妃はゆっくりと首を横に振った。


「運が良かっただけよ。私なんて本来は、妃になれるような女じゃないの。せいぜい農家の嫁がいいところでね」


 ふっと小さく息を吐き、それから少しだけ視線を下げて続ける。


「だって実際、農家に嫁ぐところだったんだから。許婚いいなずけがいたのよ。数年前まで」

「えっ──」


 さらなる衝撃に声を漏らした沙夜は、慌てて周囲を見回した。

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