第一章 夜叉の目覚めた日(2)

「〝しゆうしゆう〟の仕業ではないでしょうか。桂花宮の近くには渓流がありますし、そこから飛んできて水を飛ばしたのでは?」

「…………シュウシュウ?」


 蘭華と中年宮女が声を重ねて言い、揃っていぶかしむような視線を向けてきた。

 二人とも意味がわからないという顔をしていたので、説明することにする。


「翼の生えた妖魚ですが、見たことありませんか? 口いっぱいに水を溜めて、ぶーっと一気に吐き出す魚です。火気を嫌うので、を消したりもします」

「……何言ってんだいあんた。わけわかんないこと言ってけむに巻こうったって」

ようではありますけど役に立つ魚なんです。だって昔、うちの納屋が火事になったときなんて、夜中なのにうろこを光らせながらまっすぐ飛んできて、あっという間に火を消しちゃったんですから」


 熱弁するが、中年宮女の顔からは一向に険がとれない。

 特徴を伝えればわかってもらえるかもしれないと、身振り手振りを交えてさらに続ける。いつもつがいで泳いでいる魚で、雄の方が体が大きくてたくさん水を吐く。食べると薬効があり、おうだんにならなくなる。声はかささぎに似ていて、両翼合わせて十枚の羽を持っている、等々。


 しかししやべる内に中年宮女は無言になっていき、顔色だけが徐々に変化していった。げんな表情から渋面へと。

 さらに「火事を予知する魚でもあるからしばらく火気に気をつけた方がいい」と口にすると、いよいよ堪忍袋の緒が切れたのか、


ごとをべらべらとよくもまぁ! あんたらがそういうつもりなら、香妃様の耳にも入れておくからね! 覚悟しな!」


 それだけ言って足音をずかずか響かせながら、中年宮女は渡り廊下の先へと消えていった。どうも火に油を注いでしまったようである。余計なことをしてしまったなと考えていると、ぽんと蘭華が頭の上に手を乗せてきた。


「前にも言ったでしょ? アンタと違って妖異なんて見えないの。普通はね」

「じゃあ蘭小姐も見たことないんですか? 習習」


 訊ねると彼女は溜息をつき、呆れたように首を縦に振る。


「あるわけないでしょうが」

「……都会の人はそうなんですね」


 後宮で生活をするようになって、沙夜が最も驚いた事実がこれだった。都会に暮らす人たちには、妖異しんの類は一切見えないらしいのである。

 けれど後宮にだって妖異はいる。空には妖鳥が飛び、河に行けば妖魚が泳ぎ、物陰には幽鬼がたたずんでいる。なのに誰の目にも映らないというのだから不思議だ。


「里のみんなには見えてましたし、それが普通だと思ってました。春になると食卓に並ぶことも多かったですし。妖魚も妖鳥も」

「ははは」と蘭華は苦笑い。「まったく嵐山の里ってのはどんな人外魔境なんだか。一度見てみたい気もするけどね。怖いもの見たさってやつで。……でもさ」


 彼女はそう言って沙夜の肩に腕を回してきた。


「痛快だったねぇ。あのオバサン、すんごい顔になってたもん」

「笑ったら悪いですよ」


 同じお宮で生活しているのだから、今後も顔を合わせることはあるだろう。できれば和解したいが、妖異の存在を信じてくれないのでは難しいかもしれない。


「いいんじゃない? 別に理解されなくてもさ。結構みんなそんなもんだよ。普通の人間だって、立場によって見えるものも見えないものもあるからね」

「えぇ……? 何かうまいこと言ってまとめようとしてます?」

「まあね!」


 柔らかなしの中で、快活な笑顔がぱっとはじける。蘭華のこういう表情は大好きだ。見ているだけで口元が自然に綻んでしまう。

 後宮入りしてからこれまでの一ヶ月間は、決して楽なものではなかった。下級宮女に与えられる食事は質も量も乏しく、寮に帰れば隙間風の吹く大広間で雑魚寝をするのみ。しかも安眠などできず、同僚がかわやに立つごとに踏まれて目を覚まし、その度にきっぱらを自覚してあんたんとする。そんな長い夜を幾度も過ごしてきた。


 だけど諦めたくはなかった。官吏になるという夢はすでに失われてしまったけれど、宮女として下積みをこなせば女官になる道はある。歯を食いしばって耐えていれば、いつか望む未来に辿り着けると思っていた。

 それにいまは一人じゃない。近くに蘭華がいてくれる。こうして彼女に出会えたのだから幸福ではないにせよ、不幸でもないのだろうと考えていた。

 少なくとも、この日の夜までは。


 はくらくてんは『ちようごん』にて「後宮佳麗三千人」と歌っているが、実際には少々事情が異なる。綜の後宮では、妃の定員は百二十一人と定められているからだ。


 序列一位はこうごうだが、これは別格として定員には含まれない。二位以降には四夫人ときゆうひん、さらに二十七せいに八十一ぎよさいと続き、これらを合計した数が百二十一人というわけだ。皇后とそれぞれの妃嬪の下には世話役の宮女がつくので、総数で言えば三千を超えるが、全てが美女というわけではない。まあ白楽天も下の句で「三千寵愛在一身」と続けているので、三千人いたとしても皇帝の寵愛はよう一人に注がれていた、という事実を誇張したかっただけなのだろう。


 とはいえ、美女が百人以上いるだけでも大変なことだ。この後宮には妃と宮女三千人に加え、五百人の宦官を加えた三千五百人余りが生活している。

 昔は妃だけで数万人いた時代もあったそうだから、それに比べればつつましやかになったと言えるが、人口のみを見ればいまだに一つの街に相当する。

 なのに、けんろうな外壁に囲まれた後宮のしきはそこまで広くはない。妃たちの住まう宮殿がそれぞれ離れた場所に建てられているわけでもない。密集している。


 だから道を歩けば様々な身分の者とすれ違う。けれど、下級宮女の沙夜に許された行為と言えば、頭を下げて地面に膝を突き、決して目を合わさぬようにして貴人が通り過ぎるのを待つことくらいだ。

 だからこの日も何度もひざまずいて頭を下げた。しかし敬意をささげた相手がどこの誰なのかは、いつも通り最後までわからなかった。

 それが沙夜にとっての後宮の日常であるが、この日の昼過ぎに少々変化があった。


「──沙夜。香妃様がお呼びだよ。すぐに出頭するように」



【次回更新は、2020年2月21日(金)予定!】

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