第一章 夜叉の目覚めた日

第一章 夜叉の目覚めた日(1)


《東望山有澤獣者、一名曰白澤、能言語。王者有徳、明照幽遠、則至。昔黄帝巡守至東海、此獣有言為時除害》


とうぼうさんに澤獣という者あり、名をいわはくたく、人語をよく解す。王者に徳有りて、みようしようゆうえんたれば、すなわち現れる。

昔、こうていじゆんしゆして東海に至ったおり、この獣の言によって時代の害を取り除いた。




「──あははははっ! 科挙を受けたってのかいアンタ!」


 けいきゆうの洗濯場に朗らかな笑い声が響いた。沙夜はむくれて「そんなにおかしいですか?」と返したが、同僚のらんは腹を抱えるばかり。


「さすがにないわ! どんな田舎に住んでたらそうなるの? ああおなか痛い……」

「だから言わなかったんですよ! 笑われると思ったから!」


 鼻息荒く言い返しながら、ぷいっと顔を背ける。

 ようやく暖かい風が吹き始めた四月の午後。一面の緑に映った木漏れ日が穏やかに揺れる裏庭で、二人は下着姿のまま雑談に興じていた。

 沙夜が後宮に入ってから、既に一月近くが経つ。下級宮女となって洗濯番をこなす毎日は、決して楽なものではない。ただ教育係の蘭華とは不思議と気が合い、いまではこうして何でも話せる間柄になっていた。


「孔子曰く、女子無才便是徳女子に才無ければすなわちこれ徳であるだよ、しやーしや


 ようやく笑うことを止めて蘭華は立ち上がった。休憩は終わりのようだ。ちなみに沙々というのは沙夜の愛称である。


「女は学がない方が尊いとされてるの。花は綺麗なだけでいいし、でられるだけでいいんだよ。品種がどうの値段がどうのと言われたら白けるだろ?」

「わたしは知りたいですけどね。品種も値段も」


 せめて一矢報いようとそう口にし、沙夜も洗濯物を踏みしだく仕事に戻った。

 故郷でやっていたことに比べれば手間は少ない。桂花宮には湧き水を利用した井戸があるため、過酷なげ作業を行う必要がないのだ。

 この〝さんがんせい〟と呼ばれる井戸は三段式となっており、一番上の段は飲み水として、二段目は野菜を洗う場所として、三段目は洗濯のために使うことになっている。もちろん下へ行くほどみずためは大きくなり、三段目ともなればほぼいけである。


「女には生まれ持った役目があんの。もちろん男もね。その領分を侵すなとは言わないけど、あんまり賢いと可愛かわいがられないよ?」


 軽口を叩きながらも、軽快な動作で蘭華は洗濯を終わらせていく。三眼井の周囲は全面石畳となっており、染め物以外はそこで踏み洗いするのが普通だ。


「わかってますよ、いまは」と沙夜。「だから後宮にいるんじゃないですか」

「理解してないと思うけどねぇアンタは。後宮にいる以上、皇帝陛下のお手つきになる可能性だってあるんだよ? なのにいつまでも男みたいなナリしてさ」

らん小姐シヤオチエに言われたくないんですけど……」


 白い目を向けて呟く。蘭華は沙夜より二つ年上の十七歳。その体つきはほっそりとしなやかだが、はっきり言って女性的な魅力には欠けている。むしろ筋肉質だ。

 顔立ちは整っているがやや中性的であり、性格も勝ち気過ぎる。何より仕事中には前髪を上げて頭頂部で束ねているので、たまねぎによく似た髪型をしているのだ。無頓着なのは同じではないかと沙夜は業腹である。


「ん……? 沙々、そこの黒ずみ、まだ落ちきってないね」


 言われて洗濯済みの籠に目を向けると、確かに黒ずんだ布地がはみ出していた。


「結構念入りに洗ったはずなんですけど……どうしましょう」

「そういうのはぬかみずを使うといいよ。ちゆうぼうに行ってもらってきな」

「ええ、厨房ですかぁ……?」


 思わず眉根にしわが寄る。難色を示すのには理由があった。

 宮女にもそれぞれ役職分けがあるのだが、洗濯を任されている沙夜はしようふくという職に当たる。対して厨房を任されているのはしようしよくであり、この二つは同じ水場を使っている関係から伝統的に仲が悪いのだ。だからいつも邪険に扱われている。


「苦手なのかい? あそこは未亡人の溜まり場だからねぇ」


 蘭華が苦笑する。未亡人とは、先帝陛下の頃から後宮に仕えている宮女の蔑称だ。昔は皇帝が崩御すると、妃は後を追って死ぬか、出家して尼になるのが普通だった。だから〝未だ死なない人〟という意味で未亡人と呼ばれている。

 そもそも後宮に暮らす女は、下級宮女であろうと全員が妃候補だ。何かの間違いで皇帝に見初められた場合、拒否権が存在しないためである。なので先帝に仕えていた宮女はみんな後家のようなものなのだが、仕事上の先輩であるという自負からか総じて態度が大きい。ひんに対してすら、ずけずけものを言うほどだ。


「早く慣れた方が楽だよ?」と蘭華。「あたしが代わりに行ってもいいけどさ」

「そうですよね。わかりました」


 いつまでも彼女に迷惑をかけてはいられない。洗濯くらい一人でこなせるようにならなければ……。沙夜は意を決して「行ってきます」と口にし、近くの木陰に置いていた上着を取りに向かったのだが、


「──ちょっとあんたら!」


 怒気に満ちた声が降りかかってきて、反射的に顔を上げる。

 見ると、渡り廊下から身を乗り出して、何やらとしかさの宮女がにらみをきかせていた。急いで走ってきたようで、横髪が頰に張り付いているし息も乱れている。


「何てことしてくれたんだい! 干していた布団がびしゃびしゃだよ! あんたらがろくに絞りもせず、洗濯物を持ち込むから──」

「はあ?」と素早く蘭華が切り返す。「そんなわけないでしょうが! 水一滴出ないほど絞ってますよ! あたしらが悪いって証拠はあるんですか!」

「布団が濡れる理由なんて他にないじゃないか!」

「んなこと言われても知りませんよ!」


 宮女同士のいさかい事は日常茶飯事だが、二人の勢いが強すぎて仲裁できそうにない。しばしあわあわしながら様子を眺めていた沙夜だが、そのうちに双方の言い分が食い違っていることに気が付いた。

 物干し場は桂花宮の北端にある。洗濯物はいつもそこに干しているが、布団の干し場とは離れているため、たとえ風に飛ばされて布団に接触したとしても酷く濡れたりはしないだろう。まして、びしゃびしゃなどにはならない。


「あのう」おずおずと口を挟んでいく。「雨でも降ったんじゃないですか?」

「干したのはついさっきだよ!」


 中年宮女はさらに金切り声を上げる。


「ちょっと目を離した隙に……あんたら以外に誰がいるんだい!」

「だから違いますって!」と蘭華。「二人ともずっとここにいましたよ!」

「噓おっしゃいな! ちょっとこう様に目をかけてもらってるからって──」


 かんかんがくがく、言い争いは続く。でも沙夜たちはしばらくここを動いていないのだから、文字通りぎぬである。他に洗濯をした者がいるのか、それとも……。


「すみません。ちょっと思ったんですが」


 沙夜は再び二人の間に割って入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る