第一章 夜叉の目覚めた日
第一章 夜叉の目覚めた日(1)
《東望山有澤獣者、一名曰白澤、能言語。王者有徳、明照幽遠、則至。昔黄帝巡守至東海、此獣有言為時除害》
昔、
「──あははははっ! 科挙を受けたってのかいアンタ!」
「さすがにないわ! どんな田舎に住んでたらそうなるの? ああお
「だから言わなかったんですよ! 笑われると思ったから!」
鼻息荒く言い返しながら、ぷいっと顔を背ける。
ようやく暖かい風が吹き始めた四月の午後。一面の緑に映った木漏れ日が穏やかに揺れる裏庭で、二人は下着姿のまま雑談に興じていた。
沙夜が後宮に入ってから、既に一月近くが経つ。下級宮女となって洗濯番をこなす毎日は、決して楽なものではない。ただ教育係の蘭華とは不思議と気が合い、いまではこうして何でも話せる間柄になっていた。
「孔子曰く、
ようやく笑うことを止めて蘭華は立ち上がった。休憩は終わりのようだ。ちなみに沙々というのは沙夜の愛称である。
「女は学がない方が尊いとされてるの。花は綺麗なだけでいいし、
「わたしは知りたいですけどね。品種も値段も」
せめて一矢報いようとそう口にし、沙夜も洗濯物を踏みしだく仕事に戻った。
故郷でやっていたことに比べれば手間は少ない。桂花宮には湧き水を利用した井戸があるため、過酷な
この〝
「女には生まれ持った役目があんの。もちろん男もね。その領分を侵すなとは言わないけど、あんまり賢いと
軽口を叩きながらも、軽快な動作で蘭華は洗濯を終わらせていく。三眼井の周囲は全面石畳となっており、染め物以外はそこで踏み洗いするのが普通だ。
「わかってますよ、いまは」と沙夜。「だから後宮にいるんじゃないですか」
「理解してないと思うけどねぇアンタは。後宮にいる以上、皇帝陛下のお手つきになる可能性だってあるんだよ? なのにいつまでも男みたいなナリしてさ」
「
白い目を向けて呟く。蘭華は沙夜より二つ年上の十七歳。その体つきはほっそりとしなやかだが、はっきり言って女性的な魅力には欠けている。むしろ筋肉質だ。
顔立ちは整っているがやや中性的であり、性格も勝ち気過ぎる。何より仕事中には前髪を上げて頭頂部で束ねているので、
「ん……? 沙々、そこの黒ずみ、まだ落ちきってないね」
言われて洗濯済みの籠に目を向けると、確かに黒ずんだ布地がはみ出していた。
「結構念入りに洗ったはずなんですけど……どうしましょう」
「そういうのは
「ええ、厨房ですかぁ……?」
思わず眉根に
宮女にもそれぞれ役職分けがあるのだが、洗濯を任されている沙夜は
「苦手なのかい? あそこは未亡人の溜まり場だからねぇ」
蘭華が苦笑する。未亡人とは、先帝陛下の頃から後宮に仕えている宮女の蔑称だ。昔は皇帝が崩御すると、妃は後を追って死ぬか、出家して尼になるのが普通だった。だから〝未だ死なない人〟という意味で未亡人と呼ばれている。
そもそも後宮に暮らす女は、下級宮女であろうと全員が妃候補だ。何かの間違いで皇帝に見初められた場合、拒否権が存在しないためである。なので先帝に仕えていた宮女はみんな後家のようなものなのだが、仕事上の先輩であるという自負からか総じて態度が大きい。
「早く慣れた方が楽だよ?」と蘭華。「あたしが代わりに行ってもいいけどさ」
「そうですよね。わかりました」
いつまでも彼女に迷惑をかけてはいられない。洗濯くらい一人でこなせるようにならなければ……。沙夜は意を決して「行ってきます」と口にし、近くの木陰に置いていた上着を取りに向かったのだが、
「──ちょっとあんたら!」
怒気に満ちた声が降りかかってきて、反射的に顔を上げる。
見ると、渡り廊下から身を乗り出して、何やら
「何てことしてくれたんだい! 干していた布団がびしゃびしゃだよ! あんたらがろくに絞りもせず、洗濯物を持ち込むから──」
「はあ?」と素早く蘭華が切り返す。「そんなわけないでしょうが! 水一滴出ないほど絞ってますよ! あたしらが悪いって証拠はあるんですか!」
「布団が濡れる理由なんて他にないじゃないか!」
「んなこと言われても知りませんよ!」
宮女同士の
物干し場は桂花宮の北端にある。洗濯物はいつもそこに干しているが、布団の干し場とは離れているため、たとえ風に飛ばされて布団に接触したとしても酷く濡れたりはしないだろう。まして、びしゃびしゃなどにはならない。
「あのう」おずおずと口を挟んでいく。「雨でも降ったんじゃないですか?」
「干したのはついさっきだよ!」
中年宮女はさらに金切り声を上げる。
「ちょっと目を離した隙に……あんたら以外に誰がいるんだい!」
「だから違いますって!」と蘭華。「二人ともずっとここにいましたよ!」
「噓おっしゃいな! ちょっと
「すみません。ちょっと思ったんですが」
沙夜は再び二人の間に割って入った。
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