序章(4)


    ◇


 よほど堪えたのだろう。可哀かわいそうなことをしたとは思ったが、緑峰はそれ以上は何も声をかけなかった。かける言葉も思い浮かばなかった。

 夢うつつのように足元がおぼつかなくなった田舎娘を守衛に預け、足早に執務室に戻ると、力なく椅子の背もたれに倒れ込む。


「──どっと疲れが出た」


 机に肘を突き、編んだ指に額を乗せると、自然とためいきがこぼれ落ちる。

 すると遅れて部屋に入ってきた綺進が、くつくつと笑い声を上げた。


「珍しいこともあるものですねぇ。宮中で〝氷の貴人〟なんて呼ばれているあなたが、まさかあんなに取り乱すなんて」


 きつねのように目を細め、口元に手の甲を当ててほくそ笑んでいる。そんなおさなみの姿を見て、緑峰はいらちのあまり拳を握った。何を他人ひとごとのように言っているのか。


「全部おまえのせいだろうが! わかっていてやらせたんだろうに!」


 大声を上げながら、感情に任せて机をたたく。


「あの娘を呼ぶ前におまえは言ったな? 『面白いものが見られますよ』と! なら事前にわかっていたということだ。女の身で科挙を受けにきた者がいると!」

「いえいえ、滅相もない」


 綺進はまるで悪びれずにそう言い、先程まで田舎娘──沙夜が座っていた椅子に静かに腰を下ろした。


「誓って知りませんでしたよ。見ようによれば確かに……というところはありましたけどね。あなたこそよくわかりましたね?」

「白々しい」と、さらに声を怒らせる。「服装は男のものだったが、言葉を交わせば自然とわかる。あんな男はいない」

「そうですかね? 宦官ならばあの程度、普通ですけどね」


 綺進はふふっと息を漏らす。彼もまた宦官である。

 少年期に男性の象徴を切り落とされた彼は、確かにその昔、少女とまがうばかりの可憐な容姿をしていたなと思い出す。

 いまでも顔色は常に白く、肩も体つきも丸みを帯びているが、すっきりと瘦せているため美男の範疇にとどまっている男だ。


「面白いものと私が言ったのはね、そういうことではありませんよ」


 綺進の言葉に「何だと?」と返すと、彼はにやりとして顎を上げた。


「あなたも聞いているでしょうに。今年の州試において、史上最高得点を叩き出した受験者がいるということを」

「──おい、まさか」


 緑峰はたちまち顔色を変えた。州試とは有象無象の受験者を選別する狭き門であり、その難易度は本試験である省試を超えているのだ。高得点をとった者が出たとは聞いていたが、てっきり何らかの不正行為が行われたものだと思っていた。


「あの娘がそうなんですよ」


 綺進は口角を上げて、さらに笑みを深くする。


けいろんさく。全ての課題においてほぼ満点でした。しよきようを完全に諳記しているのは当然、その解釈の深さも他の追随を許さない。加えて筆の美しさも見事の一言です。詩作の才能に至っては、採点者が涙を流しながら『教えを請いたい』と願い出たなんて話も聞いています」


 かれこれ十五年の付き合いになるこの親友は、底意地の悪さと秘密主義を除けば極めて優秀な文官である。そんな彼が絶賛する存在とは……。


「さすがに冗談だろう?」

「私だってそう思いましたよ。だから省試の見張りに混じって、隠れてあの子の様子を見ていたんです。ですが不正など疑うだけ無駄でしたね。誰よりも早く答案を書き終えると、それからは猫みたいにごろごろ寝ていましたから」

「それが事実だとするなら……。いや待て」


 はたと、緑峰は気付く。

 綺進という男は、利用できるものはたとえ猫でもこき使う男だ。あの田舎娘にそれだけの才が眠っているとして、無闇に放逐するような真似まねはすまい。


「綺進。娘と別れる前に、何か持たせていたな。あれは何だ」


 似合わぬ仏心を出して宿代でも持たせたのかと思っていたが、そんなはずはない。

 意図せず詰問調で訊ねてしまったが、綺進はどこ吹く風のように「いえ、少しね」と受け流して答える。


「官吏になりたいのであれば、もう一つ道があることを教えてやったまでです。女の身に生まれたのであれば、それを恨むのではなく、しっかりかしなさいとね」

「おまえ……まさか!」


 その言葉の意味するところを知って、緑峰は今度こそ怒りに震えた。

 よく知っているからだ。あの場所のことは。

 あんな純朴そうな娘が何も知らずに飛び込んで、やすやすと生きていける世界などではないことも……。


「──ふふふ。さて、どうなりますかね? 面白くなってくれるといいのですが」


 糸のようなそうぼうをわずかに開き、そこから闇を漏らす綺進。こうなってしまってはもはや言葉は届かないだろうと、緑峰はただ奥歯をみしめる。

 彼の役職である中書侍郎とは、全ての宦官の中で第二位の位階にあたる。ようするに宦官長の次官なのである。

 そして綺進が主に活動の場としているのは、表の政界ではない。この国の裏側で繰り広げられるけんぼうじゆつすうの根は、皇帝の家庭内に深く張り巡らされているのだ。

 決して公に出ることのない、闇に包まれたその世界の名は〝こうきゆう〟。

 沙夜という規格外の少女が、後宮に一体何をもたらすのか。夢を叶えて女官になるのか。はたまた皇帝のちようあいを受けてきさきになるのか……。

 いまはまだ、誰も知らない。



【次回更新は、2020年2月18日(水)予定!】

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