序章(4)
◇
よほど堪えたのだろう。
夢うつつのように足元が
「──どっと疲れが出た」
机に肘を突き、編んだ指に額を乗せると、自然と
すると遅れて部屋に入ってきた綺進が、くつくつと笑い声を上げた。
「珍しいこともあるものですねぇ。宮中で〝氷の貴人〟なんて呼ばれているあなたが、まさかあんなに取り乱すなんて」
「全部おまえのせいだろうが! わかっていてやらせたんだろうに!」
大声を上げながら、感情に任せて机を
「あの娘を呼ぶ前におまえは言ったな? 『面白いものが見られますよ』と! なら事前にわかっていたということだ。女の身で科挙を受けにきた者がいると!」
「いえいえ、滅相もない」
綺進はまるで悪びれずにそう言い、先程まで田舎娘──沙夜が座っていた椅子に静かに腰を下ろした。
「誓って知りませんでしたよ。見ようによれば確かに……というところはありましたけどね。あなたこそよくわかりましたね?」
「白々しい」と、さらに声を怒らせる。「服装は男のものだったが、言葉を交わせば自然とわかる。あんな男はいない」
「そうですかね? 宦官ならばあの程度、普通ですけどね」
綺進はふふっと息を漏らす。彼もまた宦官である。
少年期に男性の象徴を切り落とされた彼は、確かにその昔、少女と
いまでも顔色は常に白く、肩も体つきも丸みを帯びているが、すっきりと瘦せているため美男の範疇に
「面白いものと私が言ったのはね、そういうことではありませんよ」
綺進の言葉に「何だと?」と返すと、彼はにやりとして顎を上げた。
「あなたも聞いているでしょうに。今年の州試において、史上最高得点を叩き出した受験者がいるということを」
「──おい、まさか」
緑峰はたちまち顔色を変えた。州試とは有象無象の受験者を選別する狭き門であり、その難易度は本試験である省試を超えているのだ。高得点をとった者が出たとは聞いていたが、てっきり何らかの不正行為が行われたものだと思っていた。
「あの娘がそうなんですよ」
綺進は口角を上げて、さらに笑みを深くする。
「
かれこれ十五年の付き合いになるこの親友は、底意地の悪さと秘密主義を除けば極めて優秀な文官である。そんな彼が絶賛する存在とは……。
「さすがに冗談だろう?」
「私だってそう思いましたよ。だから省試の見張りに混じって、隠れてあの子の様子を見ていたんです。ですが不正など疑うだけ無駄でしたね。誰よりも早く答案を書き終えると、それからは猫みたいにごろごろ寝ていましたから」
「それが事実だとするなら……。いや待て」
はたと、緑峰は気付く。
綺進という男は、利用できるものはたとえ猫でもこき使う男だ。あの田舎娘にそれだけの才が眠っているとして、無闇に放逐するような
「綺進。娘と別れる前に、何か持たせていたな。あれは何だ」
似合わぬ仏心を出して宿代でも持たせたのかと思っていたが、そんなはずはない。
意図せず詰問調で訊ねてしまったが、綺進はどこ吹く風のように「いえ、少しね」と受け流して答える。
「官吏になりたいのであれば、もう一つ道があることを教えてやったまでです。女の身に生まれたのであれば、それを恨むのではなく、しっかり
「おまえ……まさか!」
その言葉の意味するところを知って、緑峰は今度こそ怒りに震えた。
よく知っているからだ。あの場所のことは。
あんな純朴そうな娘が何も知らずに飛び込んで、
「──ふふふ。さて、どうなりますかね? 面白くなってくれるといいのですが」
糸のような
彼の役職である中書侍郎とは、全ての宦官の中で第二位の位階にあたる。ようするに宦官長の次官なのである。
そして綺進が主に活動の場としているのは、表の政界ではない。この国の裏側で繰り広げられる
決して公に出ることのない、闇に包まれたその世界の名は〝
沙夜という規格外の少女が、後宮に一体何をもたらすのか。夢を叶えて女官になるのか。はたまた皇帝の
いまはまだ、誰も知らない。
【次回更新は、2020年2月18日(水)予定!】
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