序章(3)

 皇帝がまつりごとを執り行うという、太極殿の奥深くへと二人は進んでいく。一度見ただけではとても道順は覚えられない。そんな迷路じみた通路を右へ左へ、上へ下へとただ足を進める。華美な装飾の施された宮殿の美しさに時折目を奪われつつも、誰かと擦れ違うたびに頭を下げ、足音を響かせないよう気をつけながら歩いた。

 しばらくして、金で縁取られた重厚な扉を抜けた途端、内装の意匠ががらりと変わった。きらびやかというよりは、知的で高尚な雰囲気が漂っているようだ。

 そこからさらに先へと進み、細やかな格子模様が壁面に施された回廊を抜けた先で、不意に黒ずくめの官吏が振り返った。


「言い忘れていましたが、私はちゆうしよろうしんという者です。どうぞ中に入って」


 作り物のように整った笑顔のまま、袖から細い手を伸ばして彼は戸を引く。

 中書侍郎、と言われても沙夜にはどんな役職なのかわからない。お偉いさんであることだけは間違いないだろうが。

 ただここで立ち止まって訊ね返すのも失礼に当たるだろう。だから思考を放棄し、言われるがままに部屋に入った。


「──来たか。座ってくれ」


 奥で待ち構えていたのは、せいかんな顔つきをした若い男性だった。彼はこちらをいちべつすると、執務机の前にぽつんと置かれた丸椅子にてのひらを向ける。

 それと同時に、後ろで綺進が戸を閉めた。これで逃げ場はなくなったが、もちろん沙夜は動揺など見せない。


「お初にお目にかかります! 釐、沙夜と申します! 蘭州はらんざんの里から──」

「挨拶はいい。名前も身元も知っている。とにかく座れ」


 冷然とした声色で、こくたんの机の向こう側から青年は告げた。

 改めて見てみると、彼はとても端整な顔立ちをしていた。鼻筋はすっきりと通り、口元は引き締まっており顎も鋭角だ。さらに、紫を基調とした官服の肩には鍛え上げられた筋肉による隆起が見てとれる。恐らくは武官なのだろう。


すうみつ使りよくほうだ」


 また知らない役職である。多分要職だろうとは思うものの、里で読んだ史書にそんな名称は出てこなかった。自分の知識が古いのだと確信し、服の内側に冷や汗が噴き出してくる。

 国家の諸制度は毎年目まぐるしく変わっていく。一々覚えていては頭がいくつあっても足りない。里の長老である祖父はそう一笑に付していたし、試験内容には役職について訊ねるものはなかった。だから官吏になってから学べばいいと思っていたが、甘い考えだったかもしれない。沙夜は席について背筋を伸ばす。


「いくつか聞きたいことがあるが……まず志望動機を言ってみろ」

「はい。それは──」


 胸に手を置いて一つ息をつくと、用意していた口上を一つ一つ紡ぎ出していく。


「幼き日より、官吏となって国家に尽くすことがわたしの夢であり、亡き母の遺志でもありました──」


 情感豊かに沙夜は語る。きっかけは、里を襲ったきんであった。

 原因は火山の噴火だ。天高く舞い上がった黒煙が空を覆い隠し、畑には灰が積もって作物は全滅した。汚れた雨が降り続いて井戸水すら飲めなくなり、街から遠く離れた場所にある嵐山の里はすぐさま困窮した。


「わたしはそのとき五歳でした。家畜はただちに処分され、雑草すら分け合って食べていましたがそれも無くなり、しまいには家の土壁を湯に溶かして飲むようになりました。もちろん虫でもねずみでも食べられるものなら何でも口に入れましたが、そのうち体力の無い者から倒れていくようになり、病を患っていた母も亡くなりました」

「そうか。それで?」


 冷徹な表情を崩さず、緑峰と名乗った青年は淡白な言葉を返す。別にれんびんなど期待していたわけではないが、こんな反応は初めてだ。もしやこの人、氷の彫像か何かなのではないかという疑念が生まれる。なら綺麗な顔も納得なのだけれど……。


「母は死ぬ前に、うわごとのように言っていました。おまえは働かなくていい。とにかく書物を読み、知恵と知識を蓄えて、いつか綜国に仕えるようにと。この里を変えるにはそれしかないと。国に尽くし、を受けて麓の街とも交流するようにと」

「交流があれば飢饉も切り抜けられた、と言うのだな。国の庇護を受けるためにまずは仕えよと。確かに官吏として実績を上げ、故郷の郡司となる者は多いが……」

「結局、あのときも国の支援を受けて里は救われました。わたしが官吏を志した最も大きな理由は、そのご恩返しです」

「ふむ。悪いが全く信じられん」


 緑峰は腕を組み、椅子に深く座り直す。


「蘭州と言えば西の果てだ。綜に編入されてからさほど年月もっていないだろう。都の場所どころか、皇帝の名すら知らぬ者がほとんどだと聞く。忠誠心などあるはずもなく、なのに庇護にはすがりたいと聞こえたが? であれば徴税には納得できるのか。飢饉の最中に税を納めろと言われればどうする?」

「納めます」


 沙夜はぜんとして答える。


「仮にそのような事態になったとすれば、国全体が困窮しているということでしょう。ならば一丸となって耐えましょうと、わたしが里のみんなを説得します」

「おまえにできるのか」

「里を出てくるときにも反対意見はありました。国との繫がりを深めるということは、義務をも背負うことだと。ですが最後にはみんな協力してくれて、笑顔で送り出してくれました」


 そう口にしたせいか、不意に故郷のみんなの顔が脳裏に浮かんできた。

 いてもたってもいられなくなり、腰を浮かせながら声を放つ。


「わたしは子供の頃とても体が弱くて、農作業や家事も満足にできず、里のみんなの負担になるばかりでした。ですが誰もそのことを責めずに、勉学に打ち込むことを許してくれたのです。そればかりか、貴重な書物を少しずつ持ち寄ってくれて」

「だろうな。その若さで州試をくぐり抜ける者などそうはいない。よほどのけんさんを積まねばできぬことだ。いまいくつになる?」

「今年で十五歳になりました」


 十五、と小さく復唱して、緑峰は視線を落とす。


「もう一度聞くが、それが科挙を受けた理由なのだな?」

「はい。その通りでございます」


 沙夜はもはや声量を抑えることはしなかった。ただその胸を、内側から突き上げてくる衝動のままに口を動かす。


「わたしにとって科挙は、希望そのものなのです! 数年前、この制度を知ったときには天の導きのように感じました。かつて皇帝陛下に仕える官僚を選ぶ最大の指針は、家柄だったと聞きます。つまり貴族の方々が国のかじりをし、生まれが貧しいものや卑しいものは指をくわえて見ているしかありませんでした。ですがいまは違います! 科挙は誰でも平等に受けることができて、合格基準は能力と人柄のみ。どんな卑しい生まれであっても、辺境の生まれであっても分け隔てることなく──」

「理念はそうだ。間違ってはいない。だがな」


 緑峰は沙夜の弁を途中で打ちきって、席を立った。

 そして窓の外へと視線を投げかけつつ、「何も知らぬくせに」と不満げに呟く。


「は?」

「いやなんでもない。なるほど君は努力をしたのだろう。そして周囲の者も君に力を貸し、良い環境もそろっていた。だからここまでやってくることができた。……ただ誰も君に、常識を教えなかったようだな」

「常識、ですか?」

「そうだ。最初から言えば良かったな。そうすれば無駄な時間を費やさずに済んだ」


 執務机にもろをついて前のめりになった緑峰は、語気を強めながら言った。


「君は先程、科挙は誰にでも受けられる平等な試験だと言ったな? だがその認識には、一つの大きな誤りがある」

「えっ」


 思いがけぬ言葉に、沙夜は目を丸くする。

 そんなはずはない。貴族政治の世の中は変わったはずだ。いまは能力がある者ならば誰でも上昇志向を持っていい時代。そうなったはずなのだ。

 けれど、感じる。緑峰の内側で高まっていく熱が、沙夜の頰をじりじりとあぶる感覚すらあった。彼は何を言おうとしているのだろう。どうしてあんなにも憤っているのだろうか。

 息をみ、ただ注目していると、やがて彼は口を開いた。


「科挙を受験できる者は、男子だけだ」

「…………」


 一瞬、頭の中が真っ白に染まり、沙夜はぽかんと口を開けた。

 いま彼は、何と言ったのだろう。よくわからなかったが、何かとんでもないことを言われた気がする。


「やはり知らなかったのか」


 緑峰は額に掌を当てて首を横に振った。心底あきれたように。


へきに住む者は都の場所も知らないし、皇帝の名も知らない。そう聞いてはいたが、まさか女の身で科挙を受けに来る者がいようとは……」

「う、うそですよね?」


 混乱のあまり言葉遣いが乱れたが、そんなことはお構いなしに訊ねる。


「だ、だってそんなこと、誰も」

「常識だからだ。言うまでもないことだからだ。だから誰も言わなかった」


 有無を言わせぬ勢いでそう断じて、沙夜の姿を上から下まで視線で確かめてから彼は続ける。


「当然だろうが。旅の用心か何か知らんが、そんな身なりをして科挙を受けに行くと言えばそうなる。みんな男だと思っていたんだよ。州試を監督した郡司もな」

「ま、待って下さい! 冗談ですよね? 冗談だと言って下さい! そんなひどい話はないです。さすがにおかしいです。いくら何でも──」


 意図せず大声になりながら、瞳孔を開いてきようがくあらわにする沙夜だったが、変わらず冷淡な緑峰の反応を見て悟った。悟らざるを得なかった。

 どれだけ追い縋っても、泣きわめいても結果は変わることなどないのだと。

 たまらず腰を抜かして、その場に膝から崩れ落ちる。

 物心ついたときから大切に抱いてきた夢は、あと少しで手が届くというこのときに、しんろうのようにはかなえてしまったのだ。

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