序章(2)


 依然として騒がしい腹の虫を何とかなだめつつ、きよの第二試験が行われるという都の中心──たいきよく殿でんへ向かって足を進める。

 科挙とはつまり、官吏登用試験のことだ。田舎者なので綜国の制度にはとんと疎いが、科挙が三段階の手順で行われることだけは知っていた。それが州試、省試、殿試と呼ばれていることもだ。

 州試とは地方で行われる予備試験のことで、沙夜はすでに合格している。

 そして省試とは、州試の合格者を集めて行われる本試験の名称だ。これに受かれば余程のことがない限りは官吏への道は約束されると、州試を監督していた地方官──ぐんが言っていた。

 そんなことを回想しつつ、朱く塗られた荘厳な門に近付いていくと、やたらいかめしい顔つきをした門衛に「おい」と声を掛けられた。だが、すかさず州試の合格証を差し出すと、門衛は驚いた表情になって「若いな」と呟く。

 さもあらん。この試験が難攻不落といううわさは道中幾度も聞いた。

 五十少進士。五十歳で試験に合格できれば若い方なのだそうだ。


「荷物は検める必要があるので置いていけ」と門衛が言う。「問題がなければあとで届けてやるから」


 わかりました、と沙夜は答え、麻で編まれた背負い袋を彼に手渡した。

 そうして簡単な手続きが終わると、「ついてくるように」と別の男性が先導して歩き出す。物珍しさにこっそり辺りを見回しつつ、つかず離れずついていくと、辿り着いたのはこういんと呼ばれる場所だった。

 一見して、砂利敷きの区画に長屋が立ち並んでいるだけの場所である。ただし実はあの長屋は、受験者用の個室を横につなげたものなのだ。

 それぞれの個室に戸はなく、壁と一体化した机と椅子しかない。雰囲気だけでいえば、開け放たれた独房といった印象だ。

 規模こそ違えど、州試のときも同じ環境で試験を受けた沙夜に緊張はない。だから足取りも重くはなかったのだが、先に進むうち奇妙な感覚に襲われた。まるで目に見えない釣り針が服に刺さり、四方八方へと引かれるように感じたのだ。その正体は他の受験者からの視線だった。

 噂で聞いた通り、白髪混じりの中年男性が多いようだ。文句も言わず小さな個室に収まって、みな一様にほおづえを突いている。そしてくぼんだ目から放たれる暗い視線は、何か奇異なものでも見つめるように沙夜に注がれていた。

 彼らが何を考えているかは大体わかる。年若くして高い教養を備えた者は、貴族の子女に限られる。なのに沙夜の格好がすぼらしいので、不審に思っているのだ。


 ──でもどうせすぐに、気にならなくなる。


 何故なぜかというと、この試験が非常に過酷なものだからだ。手足も満足に伸ばせない狭苦しい部屋に丸二日、受験者は閉じ込められることになる。

 食事も睡眠もその場でこなさねばならず、かわやへ行くとき以外は席を立つことも許されない。昼夜を問わず見張りが巡回しているのは、不正を防止するためというよりは受験者の体調不良に対応するためなのだろう。

 ただし沙夜にとっては、夜露をしのぐ屋根があるだけでも素晴らしいことだった。長屋は密集しているので風も強くは吹かない。案内された一番端の席に腰を下ろすと、座り心地もそれほど悪くなかった。野営に比べれば十分快適と言える。

 何よりも食事時が楽しみだ。荷物の中の弁当は、隊商の食事番がこの試験のために用意してくれたものだ。蓋を開けて中身を確かめる瞬間が待ち遠しい。彼らの期待に応えるためにも頑張らなければ……。

 拳を握りしめて己を奮い立たせていると、ふと甘い香りが鼻先をかすめた。

 顔を上げると、隅に植えられた桃の木が風にはなびらを流していることに気付く。白く塗られた殿舎の壁に薄紅が混じって、実にみやびな情景である。

 試験に通りさえすれば、ここが仕事場になるのだ。そう考えるだけでおきのような闘志が湧いてきて、胸の奥が静かに熱を帯びた。


 試験問題を解き終わったのは二日目の早朝だった。残り時間にはかなりの余裕があったが、貢院からの退出は認められなかった。なので早々に答案を提出すると、あとは個室の中でごろごろと寝て過ごした。

 そして試験終了の太鼓が鳴らされるなり、沙夜は誰より先に外へ出た。

 ようやく終わった、とまずは大きく息をつく。時刻はまだ昼前だったが、これからのことを考えるとのんびりしてはいられない。何故かというと、試験結果が出るまでの間、身を寄せておく場所を決めなければいけないからだ。

 言うまでもなく、当てはない。けれど沙夜は楽観的だった。

 都ならば雇用も多いはずだ。どこかのお店で下働きでもして、食いつないでいけばいいと考えている。もしも働く場所が見つからなくても、隊商のみんなを頼るという選択肢がある。しばらく花街とかいう場所で羽を伸ばすと言っていたし……。


「仕事が無いか探してみて、駄目なら頼む。これでいこう」


 今後の方針を口にしてうなずくと、荷物を背負って一歩を踏み出す。

 と、丁度そのときだった。門柱の暗がりから声がしたのだ。


「──ちょっと、そこの君」


 呼び止められて振り向くなり、はっとして口を押さえる。静かな足取りで歩み出てきたのが、黒一色の上衣しように身を包んだ長身の男性だったからだ。

 頭には黒いぼくとう。細い腰にはだいたいを締めてへいしつを垂らし、さらに銀色のはいしよくをぶら下げている。一目で官服とわかる装束ではあったが、何の用があって声をかけてきたのだろう。


「少々たずねたいのですが、らんしゆう沙夜とは君のことでしょうか」

「は、はいっ。そうです」

「よかった」と彼はまるで日焼けしていない顔で微笑ほほえむ。「探してたんです。試験の結果について訊ねたいことがありますので、少しばかり時間をいただけませんか?」

「え……。はい、もちろん大丈夫です!」


 思いきりよく、沙夜はぶんと首を縦に振って答える。

 一抹の不安はあったが、目の前の青年にはまるで威圧感がない。細面で肌は透ける程に白く、黒髪は直毛で濡れたように艶がある。その口元には常に優しげな笑みがたたえられており、目尻は糸のごとく細められて少し垂れ気味だった。もしかするとこれが話に聞くかんがんというものだろうか。

 そういえば、省試のあとには殿試という面接試験があるそうだ。子細は知らされていないが、これから行われるのがそうなのかもしれない。

 さっきの答案を目の前で採点されたり、より深く試問されたりする可能性がある。想像を膨らませつつ、沙夜は黒ずくめの官吏のあとについていくことにした。行き先は頁院ではないようだ。

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