後宮の夜叉姫

仁科裕貴/メディアワークス文庫

『後宮の夜叉姫』新刊発売記念大ボリューム連載!

序章

序章(1)


《男子有徳便是才、女子無才便是徳》


男子に徳有ればすなわちこれ才であり、女子に才無ければすなわちこれ徳である。




 門をくぐり抜けると、たちまち匂いが変わった。

 御者台に座っていたは、すんすんと都会の香りを確かめる。乾いた大気の中に古木のような独特の風味と、ほのかな甘みがある。吹き抜ける風には桃の花びらが紛れており、間近に迫った春を連想させた。

 故郷の里を出たのは年明けすぐのこと。もう二ヶ月が経過したことになる。思えば長いみちのりだった。乗合馬車を乗り継いで路銀を使いきると、そこからは隊商に頼み込んで下働きをしながら旅を続けた。そうして今日、ようやくこのそうの都に辿たどいたのである。感慨もひとしおだ。

 沙夜は路地裏に馬車をめると、軽々とした身のこなしで御者台から飛び降りた。裾がひるがえってわずかにすなぼこりが舞う。


「──みなさん本当に、お世話になりました!」


 荷下ろしを終えて最後の礼を告げると、長らく苦楽を共にしてきた仲間たちが順番に声をかけてきた。元気でな。体に気をつけて。再見ツアイツエン……。一つ一つの言葉がうれしくて、別れが切なくて、目尻にどんどん涙がまっていく。


! 世話になったのはこっちだよ!」


 隊長の奥さんが力一杯に沙夜を抱きすくめ、涙にれた頰をこすりつけてくる。


「ああもう、困ったことがあったらいつでも訪ねてくるんだよ?」


 赤みがかった髪色に浅黒い肌。ぞくの出だという彼女は、隊商でも一際異彩を放つ存在だった。ただし、こちらの人との一番の違いは距離感だろう。触れ合いを好み、とても寂しがり屋で、だからこそ情が深い。


「あんたは賢い子だけど、どっか抜けてるところがあるから心配だよ。悪い大人にだまされないようにするんだよ? いいね?」

「はい。でも、あの……」


 騙されないように、と言われて胸の奥にうずくものがあった。沙夜にも一つ隠し事があるからだ。

 このまま打ち明けずに旅を終わらせていいのかと考えていると、彼女は鼻をすすげながら体を離し、くしゃくしゃにゆがんだ笑顔を見せる。


「元気でね。またいつか」

「……大姐ダージエもお元気で。また会える日を楽しみにしています」


 別れに水を差すのが惜しくなり、喉まで出掛かった言葉を飲み込んで代わりにそう言った。二人の涙が入り混じった横顔が、風にさらされてすうっと冷える。


「行ってらっしゃい」

「はい、行ってきます!」


 わざと声を張って答え、すぐさまくるりときびすかえした。これ以上ここにいたら離れがたくなると思ったからだ。沙夜もまた彼女に依存していたのだろう。

 足早に大通りに戻り、足元だけを見ながら人混みを抜けていく。なだらかな登り坂を上がったところで一度だけ振り返ると、馬車はもう見えなくなっていた。

 沈んでいても仕方がない。袖口で乱暴に目を擦り、気持ちを切り替えようとする。

 周囲を見渡せば、当てつけのように色彩は華やかだった。生鮮食材を扱う露店や、軽食の屋台が所狭しと通りを埋め尽くしていた。


 ──ずっと憧れていた綜の都、だけど……。


 想像していたよりも雑多な街並みに、少々裏切られた気持ちになる。

 皇帝陛下のお膝元という割には、あまり秩序だっていない印象だ。往来こそ網目状に整理されているが、建物は屋根の高さもまちまちで波打つように混在している。

 子供たちが歓声を上げながら路地裏に走り込んでいく様を見れば、治安の良さはうかがえる。けれど、道中立ち寄った市場とそれほど変わらないように感じられた。

 たださすがに、住民の身なりはとてもれいで先進的だった。だから明らかに沙夜は浮いていた。田舎者であることを抜きにしたとしてもだ。

 いま着ている服は貧相な旅装である。袖が筒状になった深緑色のほうじようとして、ないには着古したはん。その下にはダボダボのズボン穿いていた。

 出発前に切った髪は肩まで伸びてきていたので、首の後ろで一本に束ねて垂らしてある。外見上は貧民層の少年のように見えるに違いない。こうして道端に棒立ちになっていれば、物乞いに間違われるかもしれないとすら思う。


「……いいんだ。それでもわたしには、夢があるから」


 誰に聞かせるでもなくそうつぶやきながら、爽やかに晴れた空を見上げた。

 確認するまでもない。そのためにここまでやってきた。髪を切って男の振りをして、世話になった隊商のみんなにすら女であることを隠して。

 十五歳になったばかりの沙夜は、体の凹凸に乏しく、顔もへいたんな造りだ。もちろん色気なんて毛ほどもない。とはいえ世の中には色々なこうの人間がいるものだから、目的を果たすまで絶対に女だと明かすな、というのが祖母の言いつけだった。

 だから最後まで言えなかった。でも込み上げてくるこの熱い気持ちだけは本物だ。


 ──ありがとうみんな。いつか必ず、恩は返すからね。


 眼下に向けて感謝の念を送っていると、すぐ近くからジュワッと派手な音が聞こえてきた。通りに面した酒楼の入口で、大鍋を振り回す男の姿が目に入る。卵をまとった米が宙に躍るたび、香ばしい湯気が辺りに振りまかれていく。きっと豚の脂を使っているのだろう。くう、と腹が鳴る。

 いかん。よだれが止まらない。いよいよ足を止めてはいられないと、沙夜は未練を断ち切って歩き出した。

 全ては幼き日に結んだ、亡き母との約束のため。

 加えて言えば、生まれつき虚弱な体質であった沙夜をここまで育ててくれた祖父母のため。笑顔で送り出してくれた里のみんなのため。隊商のみんなのため──

 二ヶ月もの旅路を経て、わざわざ都にやって来た理由はただ一つ。

 試験に受かって官吏になるという、その大願をかなえるためなのである。


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