6-7.
もしかすると、すべて遅きに失したのかもしれない。
夕焼けの街並みに黒煙が上がる。
街路樹が燃えていた。
道に沿って黒々とした焦げ跡が付いていて、融けて水たまりのようになったガラスや、踏みしだかれた車がそこかしこにあった。それから、死体。
額縁のような建物の窓からは、青ざめた顔がこちらを見つめている。誰もが沈黙していて、ただ真紀たちが過ぎるのを待っている。
初めは周囲を眺めていた真紀も、5分も経たないうちにレーダー盤だけ見るようになった。
「夏なんですね」
三八式が何かを踏みつけるのを感じて、真紀は言った。
「……ん?」
「さっき、スズムシの鳴き声が」
「ああ。あれ、そうか」
健斗の声はどこか上の空だった。
「大丈夫です。間に合いますよ」
真紀は唇を噛んだ。かさかさになった皮膚は、簡単に破れて血が溢れた。
あの巨人はスクランブル交差点のところで待っていた。
彼も、きっと失望していた。
生気に満ちていた赤い目は無機質に光るばかりで、刃の
「……こんなことだったのか」
健斗が呟いた。
彼の目は交差点の血だまりを凝視したまま、巨人には一
戦いの跡ではなかった。この惨状は、斥力シールドが干渉してできたものだ。この巨人は、絶望のままに歩いただけなのだ。
誰もが疲れてきっていた。
真紀は操縦桿を握った。そうすれば闘志が湧き起こる気がした。
目的はある。そこに敵がいる。そして自分たちには武器がある。異世界だろうが、知らない街だろうが、任務は変わらない。ただ、ちょっと場所が変わっただけだ。
だが無駄だった。
目の前の敵に目的はない。この打ちひしがれた男を
敵が、こちらを見た。
何か口をきけば崩れそうな脆さを感じた。衝動的に、真紀は回線を開きたくなった。せめて共に壊れたい、と思った。勝っても負けてもいい。それで何か、次のステップに進めるのなら。
「なあ」
健斗が口を開いた。
「次も、こうなると思うか」
「分かりません」
真紀は前を見つめて言った。赤い枠の中で、敵はまだ動かない。
右手を動かすと、ぐちゃぐちゃと張り付くものがあった。モニターの電光に照らされた操縦桿は、血でぬらぬらと光っていた。真紀は手のひらを持ち上げた。針金で裂かれた指は赤いリード線を巻きつけたような傷ができていて、今もぼたぼたと血のしずくを滴らせている。
指を開く。皮膚に透けた血潮の向こうで、破壊された交差点が重なる。
「『私』、ひどい死に方でした?」
健斗は何も言わなかった。真紀は唇を曲げた。
「分かりますよ。私って甘えたがりですし。健斗君も優しいですし」
後ろから視線を感じた。彼がどんな顔をしているか、想像できない。
「健斗君、お見舞いにチキンライス持ってきてくれましたよね?」
真紀は笑った。
「あれ、実は大好物なんですよ。詩布さんが無理して食べてるチョコレートだって、私、甘いからいくらでも食べれて。誕生日も嫌な顔してますけど、本当は嬉しくて仕方なくって……」
熱いものが頬を伝って、手のひらに落ちた。
たった一滴なのに、傷にしみた瞬間、突き刺したような痛みが走った。
「真紀」
「ごめんなさい。私、許せない」
吐きそうだった。
目の前で、自分が踏み潰されている。
この人は素直に笑えたはず。
好きなものを、好きと言っても許されたはず。
あれもこれも望めばみんな手に入った。諦めなくても良かった。何でもできた。
「絶対に幸せにならないとダメなんです……健斗君もお姉ちゃんもみんな居たのに……なのに、こんな風に終わっちゃダメなんです! 絶対、ゼッタイ、『私』は幸せになれたんです!」
目の前の巨人に動きはない。
真紀の首から頭まで何かが上っていった。そいつが脳の中心までやって来て、すっと消える。
思わず頬に手をやった。乾いた涙で肌が突っ張っていた。
「……俺も決心するフリをしてたのかもしれない」
健斗も操縦桿を握りなおして言った。きっと、彼は無表情だった。
「だけど、ケリを付けないといけないんだろうな。……やっと分かったよ」
心は決まった。
真紀は躯体のステータスを呼び出す。ここに来たときダメージを負ったのか、三八式の内装は機能不全を起こした部品ばかりだった。無事な系統にバイパスしながら、ダメになったパーツを切り捨てていく。
動作アセットの編集を終え、ウィンドウを閉じる。
目がかすむ。そういえば、一日中ずっと戦っている。
「発電機が沈黙してます。エネルギーはキャパシタに溜まった分で全部です」
「了解。一撃で決めよう」
火器管制システムを立ち上げた。格闘モード、対象1輌。追跡開始。
太陽はすでに落ちかけ、わずかなオレンジの残り火が地平線を燃やしていた。青みがかった黄昏の闇に、巨人の赤い瞳がちらちらと光る。
真紀はまっすぐ見据えて、ガンサイトを開いた。
「――行けます」
三八式が踏み出す。一歩ずつ、地面を砕きながら灰青色の脚を前へと運ぶ。
相手も反応した。ぎちぎちと左手が持ち上がり、ハンドカノンの銃口がこちらを向く。
「来ます!」
「く……」
三八式は急加速した。ぐっと前傾した肩口を、ばらまかれた散弾が吹き飛ばす。
今ので仕損じるなら、勝機はある。
二挺拳銃のウォーラスと違い、一挺持ちのこいつは次の装填まで隙ができる。そしてトップアタックを想定していないMLFVであれば、胸部の上面装甲が薄いはず。
あと一歩の距離で、敵の武器が装填を終えた。
三八式も機関砲を構える。
ふたつの
プラズマの光を突き破り、三八式が肉薄する。
敵が足を引くが、もう遅い。照準は終わっている。
撃ち出した砲弾が火球に包まれる。敵の目が細くなり、虹色の膜にぶち当たった弾頭が黒ずんで砕ける。2発、3発と、斥力の壁にエネルギーを失った砲弾の痕だけが刻まれる。
足を止めた三八式に、金色の爪が迫ってきた。
避ける間もなく頭部を鷲掴みされる。その勢いのまま首元が串刺しにされ、コクピットまで爪先がめり込む。ばらばらになった破片が縦横に飛び、真紀のひたいも開いてモニターに鮮血が飛び散った。
血まみれのサブカメラの映像には、さらに右手を振りかぶった敵が映っていた。
黄金のボディに夕焼けが反射して、
「まだ……負けない……」
真紀は手を伸ばして、吸気システムを切断する。
わずかに水素電池の反応速度が上がり、電流が躯体を巡る。過熱でシリコン基板が融けていく臭いが充満するなか、真紀は操縦桿のトリガーを引き絞った。
プラズマ爆発の火炎を散らして砲弾が突き抜ける。
弾が斥力シールドの表面に触れる直前、虹色の光線が虚空を貫いた。敵のカメラアイが驚愕に絞りを開き、ひしゃげた三八式の頭と、光を帯びた青い瞳を映す。
確かな手応えがあった。
ずしりと弾頭が沈む音、焼け付く赤の色彩、そして崩壊していく鋼の
こぼれた灯油が点々と地面に染みを付けた。やがてこぼれるものに潤滑油と不凍液が混じり、ほつれたウィスカーと電気モーターがはらはらとその上を覆う。
サーマルガンがマニピュレータから滑り落ちる。指が全力射撃の反動で折れていた。動力を喪った躯体が膝をつき、道路のアスファルトを散らす。
光が消えゆくコクピットの中で、真紀はうなだれていた。
まだ操縦桿を握っているのに気付いて離そうとしたが、緊張で指が強張っていた。左手で無理やり引き剝がすと、むけた薄皮がプラスチックの表面に残った。
「健斗君」
後席から応えは無かった。真紀にも振り向くだけの勇気は無かった。
歪んだハッチを押し開けると、頭にぽつりと雨粒が落ちた。焦げ臭いにおいに混じって、湿った空気がわずかに感じられた。こちらでは晩夏であることを改めて思い出す。夕立も珍しくない。
ウォーラスもどきは上半身が黒く塗り潰されていた。
一発でも装甲内まで侵徹すれば、どんな機械でも機能不全に陥る。シールドを失った後は、撃たれるがままだった。数発はコクピットまで貫通したことだろう。
三八式も左腕と頭部を破壊されていた。背中のパワーユニットは外装ごと割れて、折れたシャフトが露出していた。
「……もう、戻れませんか」
真紀は拳銃を引き抜いた。安全装置を押し下げてコッキングする。
ウォーラスもどきの後ろに回ると、背部の装甲が外れていた。損傷じゃない。内側から分離ボルトで排除されている。コクピットの内部はどろりと融けて、破損したコンピュータまで見えた。
少し探すと、消えたドライヴァもすぐに見つかった。
「ここじゃない……」
ネオンサインの前に、男が倒れ伏していた。
うわ言を呟きながら両手で這っている。脚は利かないようだった。うなじの部分には焼けた跡があり、灰色になった肉がひくひくと動いていた。
真紀が前に立っても、ブーツに手が当たったのにも気付かない様子で、男はなおも進もうとした。目は片方が潰れていて、もう片方も濁っているように見える。そこに映る真紀もまた、全身が血と煤でまだら模様になっていた。
「ここじゃ、ない」
真紀は黙して男に銃を突きつけた。もはや肌の感覚もないのか、男は変わらずもがく。
「ここじゃ――」
軽い破裂音が響き渡った。
男の目が見開き、驚いた顔のまま血の気が引いていく。何度か舌が動いて、弛緩した身体が地面にだらりと伸びる。広がっていく血がオイルと雨に紛れて、ネオンサインの紫色をぬらりと反射する。
真紀は上を向いた。
あごを何かが滴り落ちていった。
それが血か、涙か、機械が流したオイルか、確かめる前にすべて雨が拭い去ってしまった。
拳銃が手からすり抜けていく。空はもう土砂降りになっていて、落ちた音もしなかった。
三八式のコクピットに戻ると、健斗が目を覚ましていた。
彼も青白い顔をしていた。真紀が入ってくると微笑んでいたが、目の焦点が合っていなかった。
彼も、ただでさえ脊柱をやられた状態でMLFV同士の白兵戦をしたのだ。とっくに死んでいてもおかしくなかった。
「終わりました」
真紀は言った。
「少し、休みます。疲れちゃいました」
「ああ」
真紀はぐったりとシートにもたれた。
目を閉じると、背中に健斗を感じた。ふたりとも傷だらけだった。このまま一緒に永遠に目覚めない光景を想像した。それもいい。悲劇的で、素敵に思える。そしてふと、銃を捨てたのを後悔した。
「向こうのコクピット、どうだった」
健斗が呟いた。真紀は薄目を開ける。
「ぐちゃぐちゃでした」
「そうか……こっちも丸焦げだから、ちょうどいい」
「ちょうどいいって、何ですか」
ふ、と健斗が笑う。
「あの日、天気予報は晴れだったんだ」
声が濁る。彼は大きく息を吐き、身体を震わせた。絞り出すように、また口を開く。
「雨なんて、降るわけなかった」
歪んだハッチから雨だれが落ちて、ひび割れたコンソールを濡らした。
もう健斗は何も言わなかった。
真紀はぐっしょりと濡れたカーゴパンツをつまんで、離した。重たい生地はじっとりと肌に貼りついて、細い脚の輪郭を浮かび上がらせた。
眠ろう、と思った。
彼も眠った。自分も眠らなければならない。
戦いは終わった。きっと明日になれば、少しだけマシな日がやってくる。
そうに決まってる。
終わりました、と声に出さずまた呟く。そう、酷いことは終わったのだ。
雨はしばらく止みそうになかった。
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