3-1. 昂(たかぶ)り
救いなんて、無くても良かった。
光を失ったことは不幸だったが、同時にそれは必然だ。あずかり知らないところで何か原因があったから、事象は起こった。その一点だけは間違いない。
避けられないなら仕方ない。
ならば、これからどう生きるか、を考える方がずっと建設的だ。
幸せとは、標準化だとカルガは思っている。
個性と障害はスペクトラム。
大なり小なり、ヒトは初期不良を抱えている。そもそも生きるだけで飢餓と老いに苛まれている。だから食糧を口に入れ、運動で衰えに抗い、化粧でシワを隠したとき、誰もが単純な快楽を得られる。
快の本質とは、不快を取り除く行為。
その意味で分かりやすい欠陥を持ったカルガは、幸せを得やすかった。
「あなたも、一生救われないから幸せなのよ」
手を伸ばす。思った通りのところに、青年の荒れた指があった。
こちらから指を絡めると、細くなった筋肉が分かった。使わない部位はすぐに退行していく。彼は3週間眠った。そろそろ鍛えなおそうにも限界だ。
この手を握ったことは何度かあった。
彼はいつもためらいがちで、ガラス細工のように扱ってくれた。
だけど彼の意識はときどき別の方向を向いた。そういうとき、彼の歩幅はカルガより少し狭くなる。
「そうね……。あなたには負けっぱなし」
今日も長居してしまった。これ以上は真紀が心配してしまう。
立ち上がろうとしたとき、廊下から空気が流れ込んできた。
ドアのところに誰かいるらしい。
「ごめんなさいね、通していただけない?」
相手の正面に立つと、強い煙のにおいがした。安いシングルベース火薬とガソリンにいつも付き合っている人間だ。RAMじゃない。彼らなら、水素燃料のイオン臭がするはず。
「直接会うのは初めてだったか」
相手が口を開く。低く嗄れた声は、通信機越しに聞き覚えがあった。
カルガは後じさりした。
「あなた、
「写真より美しいな。施術の痕を隠すことにも慣れたようだ」
シーフは後ろ手にドアを閉めると、慎重に部屋のカーテンを下ろした。
相変わらず無駄がない。この男は、行動した瞬間には結果が分かっている。
「ここにウォーラスは無いわ」
「知っている」
シーフはベッドのところで立ち止まった。健斗の体調を見ているようだったが、息づかいから感情は読み取れなかった。やがて脈だけ取ると、シーフはまたカルガの前に立った。
「RAMが斥力シールドを得た」
いつもの通信と同じく、世間話でもしているような口ぶりだった。
「国軍が量産を?」
「いや、オリジナルを使ったようだ。あの三八式で再現する方法に気付いたらしい」
三八式――ならば、真紀がやったのだろう。
あの人は察しがいい。部品を見つけたら、使えるようになるまでは時間の問題だ。
「また殺すのね」
怒りが湧き上がるものとばかり思っていたが、心に浮かんだのは諦めだった。
この男は災害のようなものだ。動くなら、誰にも止められない。
「今回は試してみようと思っている」
「試す?」
「国軍はあれを盾としてしか認識していなかった。RAMはもっと柔軟だ」
「でも、無知なだけかも」
「だったらなおのこと良い」
シーフはくつくつと笑った。「後始末が楽になる」
どうせ後のことなんてどうでもいいくせに。
これまで同じようにやって、何度も失敗してきた。そのたびすべてが壊れた。
同じように破滅的なところがあるから、男はソ連とつながったのだろう。
初めは技術供与だった。それと引き換えに、シーフは極東にちょっとした私兵を得た。
ひと月後には、自給自足できる師団にまで成長した。
決まって、男は救いがあると言った。彼が指揮をすると、確かに勝った。汚染されていない畑も、国軍くずれに襲われない道路も、みんな手に入った。
男は内地でも語った。
誰もが意味を持つ世界がある。ネジ一本、ハンマーひと振りで変わる世界が関東平野には広がっている。俺はそれを見てきたし、作ってきた。もっと開けた世界に出ろ。おまえたちはまやかしで腐っていくのか。
――人間が堕ちる方法は簡単だ。好奇心を持てばいい。
シーフは関東平野が過酷だと言った。生き残れるのは優秀な人間だけだと。自尊心が欲しい人間は、試練をチラつかせるとみんな飛びついた。そして初戦で生き残った連中を、シーフは千人にひとりの人材だと称えた。
きっと、この男が消えても証安党は残るだろう。救いを求める無秩序な集団として。
「来るか」
男が手を差し伸べたのが分かった。
「いいえ」
「おまえには功績がある。ここより向こうはいい場所だ」
「あなたには、そうでしょうね」
男の言う場所にも、救いはない。
そっと、カルガはベッドに手を置いた。すぐそばに健斗の熱があった。
救いがないことは、幸いだ。
現実だけを見られるのだから。
「残念だけど私、あなたに与えられなくても生きていけるの」
「……分かった」
ドアが開き、シーフの足音が遠ざかる。
あの男なら拒絶された瞬間に殺すと思っていた。そうしなかったのは、すでにカルガが舞台を降りたからだろう。狩りと同じように、あの男がやるのは必要な殺しだけだ。
なんだか疲れてきて、健斗の傍で休んでいると、ドアがまた開いた。
「どうされたんですか?」
真紀がブーツを鳴らしてやって来る。この人はやかましいから目立つ。
「いえ……ちょっと、疲れちゃって」
「大丈夫です? 血がまた悪くなっちゃったとか」
「まさか。疲れたくなる気分ってだけ」
真紀に手を引かれて外に出ると、すっかり辺りは冷たくなっていた。
ちょっと歩みを遅くする。真紀も同じように遅らせた。
無意識だろう。この人の歩きも、出会ったばかりの頃と比べたらゆったりとしている。
「あなた、変わったかもね」
「はい?」
自宅の玄関でブーツを脱ぎながら、カルガは笑った。
「実験は成功したって聞いたけど」
「あ……耳が早いんですね。まあ、はい」
「久々のサンパチ、どう?」
「どうってべつに……」
真紀はごそごそとブーツのひもをいじった。
「素直ですよね。動けって言った分、動いてくれる」
「今回も?」
「たった5秒だけですけどね。何ですか、あのバリア?」
バリア――盾。
カルガはむくんだ脚を揉みながら、考えた。
シーフはきっとまたやって来る。そのときは三八式に乗ったこの人がターゲットになるはずだ。
時間は思ったよりも少ない。
「重力よ」
言葉を選び、カルガは言った。
「質量が持ってる引力が、あのシールドの正体。コンパクトにした空間のエネルギーを集めるの」
真紀は黙っていた。たぶん、理解できなかったのだろう。
「だから……その、説明は慣れてないのよね……」
カルガは首の端子を引っかいた。
「つまり、ブラックホール爆弾よ。置いてもすぐ蒸発しちゃうけど、砲弾のポテンシャルエネルギーを剥がし取るから盾に使えるってこと。国軍はカウンターパートの仮想質量も作って釣り合いを取っていたけどオリジナルは――」
「あの、はい?」
「ごめんなさい、分かって」
カルガはうなだれた。「理解できないままあれを使ってほしくない」
つくづく運命は残酷だ。こんないたいけな娘に背負わせて。
そう思ったとき、苦笑が漏れた。
おばあちゃんみたいなことを考えてる。そんな歳でもないのに。
「なんですか、急にニヤニヤして……」
「いえ、あなたって本当に可愛いなぁって思っちゃって」
ブーツをそろえて、部屋に上がる。後ろで真紀がむすっと膨れているのを感じた。
「大丈夫。急いでいるけれど、時間は残っているから」
手探りで椅子を探し、腰かける。
今日の献立はまだ聞いていない。でもこの人の作るものは、何でも美味しい。
「カルガさん、お酒を飲める年齢だったりするんですか」
真紀がエプロンを着けながら尋ねてくる。
「どうして?」
「私じゃ、詩布さんに付き合えないですから」
「別に飲めばいいじゃない、ここは関東平野でしょう?」
「モットーの問題ですよ。だいたい、あの人、飲ませてくれませんし」
彼女もいつか飲める日が来るだろうか。
カルガはそのときの真紀を想像しようとしたが、初めて会ったときの、光学センサ越しに見た彼女の顔しか知らないことに気付いた。
15歳はすぐに変わってしまう。
自分の前にあるこの顔は、きっともう知らない形をしている。
その方が幸せなのかもしれない。でも、少し寂しく思う。
玄関のドアがまた開いた。
意識したような力強い足音は、詩布のものだ。
「真紀、依頼が入ったよ!」
とうとう来てしまった。
カルガは、そっとため息を隠した。
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