第二部 サイドバイ・サイド

?. 忘れるべき人

 駅前で集合。待ち合わせは部活が終わってからの18時。

 

 夕焼けを背にして、線路の柵にもたれる。

 日焼けした首すじがひりひりと痛んだ。大会前だから顧問がいつもより厳しい。何度も面を横からたたかれて、あちこちの皮がむけた。

 青春ですね、と彼女なら言うだろう。

 ホームに電車が止まり、お客を吐き出す。その中に見慣れたショートカットヘアを見つけて、飲み差しのペットボトルをゴミ箱に放り込んだ。


健斗けんと君!」

 改札を出ると、彼女は慣れないハイヒールでとことこと歩いてきた。

 腕時計を見る。いつもみたいに時間ぴったりだった。

 帰宅部だからって、家事を済ませてから来るのは骨が折れるだろうに。

「お待たせしました」

「いや、待たせたの俺だよね」

 えへへ、と俺を見て笑う目は、制服姿の彼女より少し大きい。

 シャドーですよ、と前に聞いた。ちょっぴり陰を入れるだけで、目がおっきくなるんです、と。

 

「どうしたんです?」

「ん……。真紀まきちゃん、気合い入れてるね」

「余裕があったんですよ。姉さんも今日は非番なので」

 彼女の家に行くと、お姉さんとはたまに顔を合わせる。ちょっと怖いところはあるけれど、きれいな人だった。

 2人ともまるで似ていないのに、愚痴ったり笑う顔はそっくりなのが面白い。


「それで、喫茶店でいいか? いつも行くところになるけど」

「はい、大丈夫です。お願いします」

 彼女が頭を下げる。シャンプーの香りがして、ふと不思議に思った。

 俺はそんなにかしこまる相手なんだろうか。

 学ランの袖をつまむ。小手がかぶさっていた手からは雑巾みたいなニオイがした。汗もろくに拭かなかったから、腕をこするだけで垢がでてくる。

「女の子と会う格好じゃないな」

 隣の彼女が、不思議そうにこっちを見た。

 なんでもない、と返して歩きだす。

 

 家が近いから、縁があったから、同じ小学校だったから。

 今じゃ思い出せないが、物心がついた時から一緒にいることは多かった。俺が勉強を教えることもあれば、お互いに悩み事を相談することもあった。どんなことでも彼女は頭の回転が速くて、俺が同じ年ごろだったときよりも優秀だ。


「カフェラテを」

 と喫茶店の店員に言うと、彼女も「同じものを」と続ける。

「いつもそれだな。自分が好きなの頼めばいいのに」

 俺が口を尖らすと、彼女はおしぼりで手を拭きながら微笑んだ。

「いいですけど、私、遠慮して安いの注文しますよ? 健斗君そういうの嫌でしょ?」

「じゃあ真紀ちゃんが好きなのを教えてくれ。それ頼むから」

「そんなの次からいつも同じメニューになるじゃないですか。お断りですよ」

 彼女はハンドバッグから本を取り出した。

 古くさいものが好きな彼女は、オペラも聞けば小説も読む。ちらりとタイトルを確認すると、タイム・マシンとかウェルズとかいう文字が見えた。


「それ、前も読んでたな。好きなの?」

「ええ」と、彼女はうなずく。

「タイム・マシンってドラえもんの?」

「この人が初めに作った言葉なんです。戦車もこの本の短編がきっかけで発明されたんですよ」

「……すごいね」

 俺はめったに本を読まないから、こういうときはいつも受け手だ。

 カフェラテが運ばれてきて、彼女も本をしまう。

 会話を途切れさせたくなくて、適当に話すうちに、前も同じ内容のことを話したのを思い出した。彼女の様子をうかがう。どこか上の空のように見えた。

「ごめん。この話、前も言ったよな」

「え、そうですか?」

 彼女が思いついたように目を丸くする。

 さっきから彼女は妙にぼんやりとしていて、カフェラテもちびちびとしか飲んでなかった。

「……いや、なら良いんだ」

 マンネリだ、と言葉にせずつぶやいた。よくまあ向こうも飽きないものだ。

 今回は俺から誘った。大会間近で一週間ほど会えなかったのもあるし、何より今日は大事なイベントだ。

 

「あとでケーキ買いに行くんだけどさ」

「はい?」

 また、彼女は驚いたふりをする。何を考えているんだか。

「だから……真紀ちゃん誕生日だろ? そのお祝い」

「あ、あー。なるほど。えっと」

「お姉さんは何でも食うだろうから、ケーキくらいは自分で選んでくれないか?」

 少し、自分の顔が赤くなるのが分かった。

「分かりましたけど。自分のバースデーケーキを自分で選ぶの、ちょっと恥ずかしくないです?」

「うん、今俺も思った。ごめん」

「煮え切らないところ、相変わらずの健斗君ですね」

 彼女は一気にカフェラテを空けると、伝票を手に取った。

 おごるよ、といつもみたいに横取りして、レジの店員に差し出す。


 店を出ると、彼女は信号のところで足元を見つめていた。

 伸ばし始めた髪がこぼれて目にかかっている。

 男の人はこういうのがお好きなんですよね、といたずらっぽく言われたのを思い出した。たしかに、悔しいが可愛かった。

「何歳だっけ」

「私、高校生ですよ」

「俺も今年は受験だから、会えなくなるかもな」

 ええ、と彼女は顔を上げた。

 何かを決心したように、唇を引き結んでいた。


「さっきのケーキの話ですけど、私、あなたに生意気言っちゃいましたよね」

「気にするな。俺の要領が悪いのはいつものことだろ」

「でも……気にしてます」

 はあ、と彼女は息を吐く。

 とうとう<あなた>と来た。ここまで冷たいと少し心にくる。

「真紀ちゃん、えっと」

「その『ちゃん』付けも、今日で終わりにしません?」

「え?」

 少し沈黙があって、彼女が一歩だけこっちに寄る。

「だいたい誕生日に私を呼ぶんだから、もう少しちゃんとした格好で来ると思ってました。なのにぼろぼろの学ランって何ですか? 汗臭いし、謝ってばっかりだし、死ぬほどノープランですし」

「さっきからなんだよ。は?」

「私、16歳なんです。ちょっとくらい言わせてください」

 彼女はさらに歩み寄る。目の前に、彼女の大きくなった瞳がある。


「あなたも、私がいないと全然ダメですね」

「……悪かったな、ああそうだよ」

「不公平じゃないですか。そんな辛気臭い顔させてたら、また私が姉さんにぶん殴られちゃいます」

「そこは俺から言っとくから」

「だから、恩を着せないでください。私もその……恥をかきたいと言ってるんです」

 一瞬、彼女は目をそらした。

 意味が分からず突っ立ってていると、彼女はさっさと横断歩道を歩き始めた。

「おい!」

「あとで、お話しましょう。ちゃんと言葉を選びたいので」

 すたすたと道の反対側に行って、手招きしてくる。


 いったい何を話そうとしているのだろう。


 俺はやれやれとかぶりを振り、横断歩道に足をかけて――――


◇◆◇


 目が覚めると、まだ辺りは暗かった。

 ぐっしょりと汗で濡れそぼった背中を、苦心して敷布団から引きはがす。

 腕に巻いた時計によると、午前4時らしい。

「……くそ」

 健斗はひたいをぬぐって、洗面所に行った。鏡に映るのは犬っころみたいな情けない顔の少年だ。

 あれから1年、19歳。

 鏡の顔が憎たらしく感じて、指ではじくと思いのほか大きな音がした。


「どうされました?」

 後ろから声がかかった。心配そうな顔をした真紀が、鏡に映り込む。

「……何でもない、ちょっと目が覚めただけだ」

「最近浅いですよね、眠るの。お布団替えましょうか?」

「問題ない。すぐ慣れる。それより起こしたのごめん」

「いえ。なんで謝るんですか」

 健斗は一瞬だけ呆気にとられ、そして苦笑した。

 この人はすぐには怒らない。あの子とはまったく違う。

「嫌な夢見たんだよ。恥ばっかりかく夢でさ」

「そうですか? すごい顔してますけど」

「だろうな。ひどい寝起きだ」

 真紀がまた布団に戻ったところで、健斗は鏡に向き直った。


 ひどい顔――その通りだった。

 夢の中の彼女を思い出す。

 今、真紀の名前を呼んだら『ちゃん』を付けていたかもしれない。


 あの子のことは覚えている。袖をまくった腕に銃創はなく、髪もシャンプーを欠かさない。何をやるにしても喧嘩腰で、いつもはっきりとものを言う。

 こっちは違う。

 彼女はウェルズを読んでいないだろう。誕生日のケーキだって、健斗が何も言わなくても自分で用意してくれる。喫茶店では好きなものを頼んで、呼び方ひとつですぐに嫌な顔ができる。


「忘れたいな」


 健斗はつぶやき、慌てて顔を洗った。

 冷たい水をかけても、目元だけがじんわりと熱かった。

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