4-3.

 10月ごろだったと記憶している。嫌になるくらいの曇天だった。


 鉛のように重たそうな雲と、同じくらい憂鬱な色をした廃アパート。

 砂利道をつまずきながら歩く私の右手には、歳の離れた姉が親の目を盗んで渡してくれた最後の乾パン。缶の中身は半分も残っちゃいない。


 伸び放題の髪が脂でごわごわして気持ち悪かった。

 顔はこんなにも乾いているのに。


 涙はとうに枯れ果てていた。号泣しても誰も気にかけてくれない寂しさを初めて知って、いかに今まで恵まれていたのか思い知った。

 孤独だった。けていく頬と、少しずつ凹んでいくお腹だけを感じた。

 ただ苦しいだけじゃなくて、弱っていくのが目に見えて、怖かった。

 私を運んできたバンから放り出されてから数十日。もう恨み言を叫ぶ元気もない。

 少しでも考える元気を削るために、こうして出歩いては帰るだけの毎日。いっそ死にたいくらいなのに、腹が減れば乾パンだけは律儀に食うのだから、皮肉なものだ。


 ねぐらにしている廃アパートの前で、足を止める。

 今日に限って、見慣れないものが置いてあった。

 見上げるほど大きい。その大きさには、妙に安心感があった。

 夕焼けのように真っ赤な、平面だらけの機械だった。手足と頭もくっ付いてるけれど、お人形という感じでもなかった。手にバカみたいに大きな鉄砲を持っている。

 見た目は乱暴そう。

 それなのに、頭の三つ目だけ、きれいに澄んだ緑色をしているのが変だった。


 似た機械をバゾクと大人たちが呼んでいたのを思い出した。

 私は逃げようとして――やめた。

 バゾクに捕まれば殺される、と聞いている。

 結構じゃない。どうぞ踏み潰して。

 動かない機械の前で、私はいつまでもうろうろと歩き回っていた。

 こわごわと脚に触ると、随分ざらざらしていた。年季が入っている。どう動くのだろう。赤は好きな色だったから、早くその光景を見たかった。


「何をしてるの」

 少しかすれた声が後ろからかかった。

 振り返ると、若い女の人がリュックを背負って立っていた。

 姉と同じくらいの歳だろう。擦れて白くなったジーパンに海老茶色のジャケットという雑な格好なのに、よく似合っていた。

 きりりとした目ににらまれ、つい後ずさった。

「キミ、ここで何をしてるのかな」

 怖がらせたと思ったのか、女の人はいくらか柔らかく言い直した。

「何もしてない」

 とぶっきらぼうに返事する。

「お父さんたちはどうしたの。ここは危ないよ」

「知らない。ほっていてよ」

 私はいらいらと女の人を跳ねのけた。


 この明るい声を聞くと、大人たちに反対もせず、こそこそと盗んだものを渡してきただけの姉を思い出す。見かけ倒しの、ホントは何もできない無力な奴……私もこの人もみんな同じだ。

「仕方ないなあ」

 ほっぺをぷくっ、と膨らませると、女の人は背中のリュックから水筒を取り出した。

 こぽこぽとコップに中身を入れ、自分は注ぎ口からそのまま飲み始める。

「喉渇いてるでしょ? 飲みなよ」

「いらない」

「嘘ばっかり言っちゃってさ。キミの声、ガラガラだよ」

 差し出されたコップの中身は、油のように黒く濁っていた。毒じゃないらしい。どちらでも同じことだ。乾パンと泥水続きで傷ついた胃袋は水を欲しがっていた。

 ふんだくるようにコップを受け取ると、私は考えなしに中のものをあおった。


「ウブッ――おええぇ!」

 地面に突っ伏して口の中の液体をもどす。酸っぱいし、苦いし、渋い。泥水どころじゃない。毒の方がまだマシだった。拷問に使えそうなほど酷い味だ。

 こんなものに平気で喉を鳴らす女の人が信じられなかった。

「コーヒーも飲めないようじゃ、まだまだガキね」

 女の人は意地悪く言った。不思議と、馬鹿にする調子は無かった。

「なんで、こんなまずいのを飲めて……」

 女の人がにやりとする。

「知りたい?」


 これは罠だ。私から根掘り葉掘り聞き出そうとするための、この人の作戦だ。

 それは分かっていた――分かっていたのに。

「知りたい……です」

 使い慣れない敬語まで使って、私は頼み込んでしまった。

 女の人が「分かった」と顔を輝かせる。

「苦みを感じるのは舌の根元。だから真上からコーヒーを落とすイメージで飲むの」

 実演を交えて女の人は説明した。私はふんふんと鼻を鳴らして、早速真似をしてみた。

 煙突みたいに首を真っ直ぐ、舌に当たらないようにぐいっと一気に。

 ボチャボチャと嫌な音がして酸っぱい刺激が頭を殴りつけてくる。でも、我慢できないほどじゃない。

 下げたコップの向こうには、女の人の満面の笑みがあった。

 優しく頭を撫ぜられる。その仕草が姉と似ていて、思わず見つめ返した。


「おめでとう。これでオトナの仲間入り」

「と、当然よ」

 女の人は、私の生意気な強がりにも嫌な顔ひとつせずニコニコしていた。

 私はもらったビスケットをかじりながら女の人のことを色々と尋ねた。一人で何をしているのか、と訊いたら『正義の味方』と真顔で返された。

「お姉さん、いい人なの?」

「どっちかと言うと悪い人かな。人殺しの道具を使っているから」

 後ろの機械をじろりと睨んだ女の人の顔は、少し怖かった。


「でも、悪い人をやっつけるじゃん。するとみんなちょっとラクになる。で、アタシは儲かる。それってこのご時世さ、ほんの少しくらいはハッピーなことじゃん?」

「悪い人が悪い人をやっつけるなんて、変なの」

「結構ずばずば言うよねキミ……」

 私たちは一日中話し合った。予想とは裏腹に、女の人は一言も私に質問してこなかった。私に嫌なことを考えさせないようにしていたのだと思う。


 夜になると、女の人は機械の中から毛布と鞄を引っ張り出してきた。

「アタシはもう行くからこれで夜をしのいで。あ、迎えが来たらこの中身渡しといてね」

 女の人が手渡してくれた鞄の中には、新品の札束がぎっしりと詰まっていた。

「これ、私のお値段ってこと?」

「そういうつもりじゃないってば。マトモな大人はお金がないと動かないんだから」

「ふうん……」

 私はまじまじと女の人の横顔を見つめた。

 わざと合わせないようにしてる目は、茶色と灰色が混ざった綺麗な色をしていた。

 大人の目だなあ、となんとなく思う。


「お姉さんに付いて行くのは、ダメ?」

「やめといた方がいいよ。ろくな目に遭わないし」

 即答だった。だから、ちょっぴり意地悪したくなった。

「ろくな目に遭わないのに、知り合ったばかりの子供に渡すお金はあるの?」

「いや、アタシが無駄遣いするくらいならと思って……」

「このお金で悪い人やっつけた方がたくさん助かるんじゃないの?」

「……うっ」

 女の人の表情が固まる。しばらくすると、露骨な舌打ちが聞こえた。

「OK、負けた! 連れて行けばいいんでしょ!」

 ぶつくさと文句を垂れながら、女の人は私の腕を掴んだ。「これだからテツガクは嫌いなんだよ」とか色々聞こえたけど、私は嬉しかった。


 だって。この人のこと、嫌いじゃない。


 それが、当時RAMのライセンス取得に奔走していた詩布さんとの出会いだった。

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