4-1. 盲目の海象

「真紀ぃ……」

 歯ぎしり交じりの詩布しのぶの寝言が、真紀にとっての目覚まし時計だ。

 ペラペラの布団越しに聞こえるいびきは、ふわふわとしたまどろみも容易にぶち壊す。

 思えばこの5年で、生活リズムがすっかり詩布用に調整されてしまった。

 枕代わりのダッフルバッグをどかして起き上がる。

 なかなか便利で重宝しているが、これも誕生日プレゼントとかで、なんとも嫌味ったらしく渡された一品だったりする。


 ともあれ寝言だ。

 今日は珍しく人名と来た。いつもの酒名シリーズじゃない。

 左隣で豪快に眠る詩布と、右隣で窮屈に身体を丸めて眠る健斗。どちらを先に起こすべきか、真紀は腕を組んでしばし考えた。

「真紀、ごめんね……」

「ほう」

 謝罪が続いた。これは詩布がようやく日頃の横暴に気が付いたということか。ちょっと今日は自然に起きるまで寝坊させてあげようかな、と思う。


 が、彼女の手に握るものを見て、気が変わった。


「次はちゃんと巻けるように頑張ろうねぇ」

「……何ですか、嫌味ですか、ぶち殺されたいですか」

 詩布が抱える、練習にサラシが巻かれた『まな板』を抜き取る。

 はァと気合を入れ、真紀はそれを大きく振りかぶった。

 早朝一発。スパーンッ、と殺人的な快音が響いた。


◇◆◇


 朝食の準備。

 それは自分の一日における、数少ないプライヴェートタイムだと真紀は思っている。

 かれこれ五年。詩布の乱れに乱れた缶詰と軍用糧食ばかりの食生活を改善すべく、来る日も来る日も淡々と調理を続けてきた。


 ただ、この数日で一度、料理を作ろうと健斗が提案してきたことがあった。

 意外なことに、彼はパスタなどの貧乏飯にはかなりの自信があるらしい。

 もちろん、真紀は断固として拒否した。

 男子台所に入るべからず、などと時代錯誤もはなはだしい表現まで使った甲斐あり、幸いにも彼女の安寧は保たれている。

「ふんふんふーん、ふふふんふーん」

 セラミックの安っぽい包丁、ぎっしりと調味料の詰まった棚。

 ここだけは隅から隅まで自分用。素晴らしい。

 お気に入りのポップスを2曲歌い終わったと同時に、ようやく盛り付けが終わった。


 お待たせしました、といつもの一言とともに、真紀はテーブルに配膳を始めた。

「献立は?」

 詩布が依頼書の束から顔も上げずに尋ねる。頭にできた大きなこぶを掻きながら。

 味噌汁と真空パックの鮭の塩焼きです、と答えると、彼女はようやく机の書類を片づける気になったようだ。暇そうに布団を片付けていた健斗がよし、とうなずく。

「和食か。2回目だな」

「味が微妙だったらごめんなさい、かつお節がなかなか手に入らないので……」

「そうか、真紀は鰹だし派なんだ」

「アタシは別に味噌汁のだしにはこだわらないけど」

「詩布さんと一緒にしないでくださいっ!」

 キッ、と真紀は詩布をにらむ。


 この女の料理音痴は度が過ぎる。一度だけ料理を任せたときは、チョコレートバーを溶かしたシチューを名乗る泥のかたまりが出てきた。

「目玉焼きくらい作れるようになりませんか? 私がいないときはどうするんです」

「そんな特殊なケースがアタシの人生に何回あると思ってんの」

 詩布は大げさに欠伸をしてみせると、椅子をギイギイ鳴らした。

 冷蔵庫には今朝の残り物。部屋の隅に山積みにされた段ボールにはおびただしい数の流動食のパック。

 まあ確かに、どう転ぼうが、詩布が飢える事態は起こり得ない。


「はぁ……」

 生活能力を向上させる気配のない相棒をうんざりと見ながら、真紀は渋々箸を取った。

 いただきます、と3人で合わせ、朝食が始まった。

 いつもながら詩布はすごい食いっぷりだった。これを食わねば世界が終ると言わんばかりに食材を胃に投下していく。それでいてずっと痩せているのだから不思議で仕方がない。

 この食べ方を下品と評する人もいるのだろうが、少なくとも真紀は詩布の食べっぷりが好きだったし、この幸せそうな満腹顔を見たくて料理を練習した部分もある。


 箸で鮭を切り分けるついでに、ちらりと健斗を横目で見る。

 彼は味噌汁をすすっているところだった。こちらも美味しそうに料理を食べてくれる。

 ことん、と小さな音を立てて空の茶碗が置かれた。

「あ……」

 その一瞬に健斗の顔に浮かんだ、懐かしむような、寂しいような表情。

 また、別の人みたいに見えた。

 じっと見つめる真紀に気付いて、健斗が目を向けてきた。

「ん、どうした?」

「あ。で、デザート忘れてました!」

 駆け込んだ台所でヨーグルトを容器によそいながら、真紀は今の顔の意味を考えた。


 一番可能性が高いのは、ホームシックの一種だろう。

 では何故隠す? やっぱり馬賊の一味なのか。

 そっと、太ももにくくりつけた空っぽのホルスターを触る。何度も撃ち方を練習してきた9ミリ拳銃。覚悟と用意は万全でも、まだ使いたくない。

 それにしても――突然バカみたいな考えが浮かんで、真紀は苦笑した。

 彼には味噌汁を作ってくれる人がいたんだな、なんて。


「時が来たら話す、でしたっけ……」

 片手で髪をすく。いったいいつの事になるのやら。


 もやもやとしたまま食卓に戻ったとき、詩布が放り出した依頼書を見つけた。

「輸送任務……」

 便箋に記された文字を読み上げ、真紀は笑顔になるのを感じた。

「詩布さん。そのお仕事、受けてもいいですか?」

 椅子に座るなり、真紀は腹をパンパンに膨らませた詩布に問いかけた。

 詩布はうるさそうに目をつむった。

「それ、危ないから他に回す予定。ギャラばっかり高いだけで面倒くさいし」

「護衛として別に、サンパチを出せばいいじゃないですか」

「ひとりしか乗ってない複座型の性能なんて、せいぜいが7割程度だって。無理だから」

 真紀はがっくりとうなだれた。せっかく健斗と話す機会を得られると思ったのに。

 詩布のガレアスは足の遅さから当てにできない。

 しかもその日は国軍のサポートがある日だった。護衛を知り合いのRAMから募るのも厳しそうだ。

「でも、一応動かすことはできるんですよね」

 健斗が独り言のように呟く。

 しめた、援護射撃だ。真紀は身を乗り出した。


「そう、そうです! 動かせるんです! こんな日に、ちゃんと整備されたMLFVが護衛してるトラックに手を出そうなんてアホな馬賊はいませんよ」

「あんたらねぇ……」

 詩布は参った、という風に手を上げた。

「わかった。アタシがレクチャーしてあげる。たしか2週間後の依頼だよね?」

「ありがとうございます!」

 やれやれと首を振って、詩布はトイレに向かった。レクチャーとやらの下準備をするらしい。


「健斗君も、今のうちにトイレ行った方がいいですよ」

「なぜ」

 真紀はぞっとするほどの満面の笑顔を向け、お腹のあたりをさすった。

「詩布さんの訓練って、シャレにならないレベルでゲロ吐きますから」

 青い顔をしてすぐにトイレに並んだ健斗の背中に、真紀はこっそり、ため息をついた。

 自分から言い出したこととは言え、せっかく作った朝食を無駄にしてしまった。


◇◆◇


 演習場はいつになく混んでいた。

 立ち見のギャラリーまで出ている。非番のRAMが全員詰めかけているのではないかと思えるほどの熱気だ。演習場の管理棟に入った途端、真紀は目を見張った。


 なんでも、詩布の訓練風景を見られるというだけでみんな集まったらしい。

 敏腕女性ドライヴァという肩書きは思ったより大きいようだ。あまつさえ本人は――本当に不本意なことに――水準超えの容姿を持っている。

 遠くで、訓練標的のかすれた同心円に黄色の染料がぶち撒けられた。

「有効。次!」

 三八式の車外スピーカーから詩布の尖った声が響き、ギャラリーがどよめく。


 了解、と返す健斗の声は、死にそうなほどか細かった。

 ビル群に見立てられた障害物の裏からMLFVが半身を出し、視界確保からの移動を行う。向かいの障害物に身を隠したと同時に、近辺の敵歩兵の走査。

 市街地戦は索敵ですべて決まる。

 先手さえ取れれば、戦車だろうとヘリだろうと怖くない。ハルクの20ミリ機関砲でさえ非装甲部位を狙えば、最新型の主力戦車だって撃ち抜ける。

 周囲の確認を終えた三八式が物陰から飛び出す。

 第3目標として設定されたハリボテに牽制射撃を加えつつ、第2目標の射線外から接近、射角に入ったと同時に発砲。

 わずかに逸れた弾が標的の後ろのコンクリート壁に大きな黄色の染みを作った。相対速度の調整が足りなかったらしい。

「今の踏み込みすぎ!」

「すみませ……ごふぇっ?」

 スピーカー越しにでもはっきりと聞こえる殴打音が鳴り渡った。健斗が慌てて第2射を的に当てると、「もう遅い!」と再びゲンコツがヒュンと鳴った。

 何人かのRAMが「えっ」と身を引く。

 噂だけで詩布のことを聞いて、やましい幻想を抱いていた連中だろう。直接本人に会ったことのあるメンバーは神妙にうなずいている。


 ひび割れたベンチの上で、真紀は水筒から紙コップに麦茶を注ぎながら、懐かしい感覚に目を細めていた。

 この健斗が食らっている理不尽の一発一発が、この身で重ねた過去5年の歴史だ。

 喉元過ぎれば熱さ忘れるとはよく言ったもので、トラウマものの暴行ですら今は愛しく思える。もう一度やれと言われたら絶対に嫌だが。

 三八式が今度は奇怪なダンスを始めた。

 片脚のサスの圧を抜かれて膝をついている。その状態で行進間射撃をしろ、ということらしい。擬似的なダメージを受けたまま、三八式が胴体を上下させてライフルを撃つ。

 当然のこととして命中率は20パーセントを切った。

 それでも詩布の容赦なき制裁は止まらない。


 ぽかぽか、どころではない、バキバキと鈍器で殴る音が連続した。

 戦闘室内の様子が音声以外わからないのが本当に残念だ。

「あんな滅茶苦茶で上達するのか……」

 隣から声がかかる。初老の整備班長だ。手順書を抱えながら、水の入ったペットボトル片手に顔を引きつらせている。

「ケンカ剣術と同じですよ。複雑なものは身体で覚えるのが一番早いんです」

 真紀は整備士の方を見た。

 ツナギの胸に『羽田はねだ』と刺繍されているのが見えた。

「ガンナー不在では、照準は弾着修正に頼るしかありませんから。2発目を当てるためにも、1発目をどれだけ安全な位置から撃つかにかかっていますし」

「マニュアル照準でいいじゃないか」

 真紀はひとつふたつとかぶりを振った。

「健斗君は初心者ですよ。だいたい人間の感覚なんてものは信用しちゃダメです。レーダーとかシーカーとか、戦場で最後まで精確なのは機械だけなんです」

 羽田は納得しかねる様子だった。


 三八式は旧世代最高クラスの性能を誇る。

 が、それはあくまで駆動系と電装系に限った話。

 防弾装備は旧式戦車と同様の圧延装甲と腕部を使った空間装甲に限定されているため、被弾のリスクを増加させる『二本目の矢』戦法には向かない。


「どうせRAMの相手なんてハルクが大半ですし。大丈夫ですよ」

「それもそうだが、あのサンパチは……」

 そこまで言って羽田は急に言葉を切った。口が滑った、とでも言うかのように。

「サンパチがどうかしたんですか」

 真紀はベンチから腰を浮かせた。

 前回の戦闘で三八式は勝手に動き出した。整備班にはその件の調査も頼んでいる。


 羽田は渋面をつくると、ためらいがちに話し始めた。

「自慢じゃないが、触るだけで大抵の構造はわかるんだ。極東戦争で全部直してきたからな。専門外の電装だって。だが、あのサンパチは……」

「違法改造品ですからね」

「そうじゃない。何というべきか、あの車輌は

「はい?」

 コップから茶がこぼれた。

「生きてるって、自己診断プログラムに何か」

「いや、プログラムは無駄こそ多いが、第4世代とほぼ同じ仕様だ。うまく説明できないが、動かすたびに応答が微妙に変わるんだ。こちらの顔色をうかがっているようにな」

 羽田はくい、くい、と指を曲げた。

「はぁ……応答が」

 レスポンスが変わるということは、機械学習あたりでアシストしているのかもしれない。試作車輌や教導団で似たものを使っていると、真紀も詩布から聞いたことがある。


 真紀は右手を開き、また握った。

「……やっぱ危ないです、あれ?」

「乗ってるのはおたくらだからな。小牧さんの判断に任せる」

「そういう無責任なお返事、オトナですね」


 どうしようかな、とぼんやりと考えて、真紀はかぶりを振った。

 これまで操縦していて、大きな不便を感じたことはない。この件に関しては放置してもいいのだろう。

 その時、ガシャンとひときわ大きな衝突音が会話に割り込んだ。

「ごめん、鹿屋君が気絶しちゃったからここまでにしとく。後片付けよろしくね」

 あっけらかんとした詩布の声が、つんのめった三八式から響く。いびきのようなノイズは意識を失って泡を吹く健斗のものだろう。

「また加減忘れて殴っちゃったんですか」

「えへへ」

 管理棟のマイクで尋ねた真紀に、詩布は悪びれない含み笑いを返した。

 物騒な会話をするふたりに、取り巻くRAMたちの寒々とした視線が注がれていた。

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