第36話 ビーフシチュー【2】


 ともかく、ビーフシチューを温め直す。

 香るデミグラスソース。

 くつくつ、くつくつ。

 煮る音だけでも期待が高まる。

 鍋いっぱいのビーフシチュー。

 温まってからスープ皿に取り分ける。


「す、すごい、肉がゴロゴロ……!」


 改めてだが、このビーフシチューに使われている肉は黒毛和牛のもも肉……!

 スーパーで買えるようなものではなく、きっとなんかすごいところからの取り寄せとかそんな感じなんだと思う。

 ごくん。

 まずい、期待がそのままヨダレに……。


「いただきます」


 スプーンをスープ皿の中へと差し込む。

 深いワインレッドのとろみのあるスープに、にんじん、玉ねぎ、マッシュルーム、そして堂々たる姿の肉が沈んでいる。

 匂いで分かる……これは絶対美味しいやつだ。

 まずにんじん。


「ん、んん……芳醇なる甘み……」


 多分玉ねぎの甘味が溶け込んでいるからだろう、なおの事にんじんが甘く感じる。

 俺、実はにんじんってあまり得意ではない。

 なんかこう、見た目の色味が野菜としてありえない……ってちょっと思ってる。

 だってオレンジとかフルーツみたいじゃん。

 実際食べても甘いしさ。

 小さな頃に植えつけられたその苦手意識が今でもあるんだけど、ビーフシチューには酸味があるから甘さが際立つんだよな。

 これ、市販のルーを使ったんだろうか?

 よくよく考えるとデミグラスソースってなにで出来てんの?

 酸味とか色とかから考えてトマトは使われてるよな?

 そんなイメージがある。

 深く考えた事がなかったのでスマホで調べてみると、やはりトマトと赤ワインが使われているらしい。

 あとは玉ねぎや小麦粉、ニンニク、バター、ローエリとかも入ってるのか……デミグラスソースって作るの大変なんだなぁ。

 改めて、ルーを作ってくれた先人ありがとうございます。


「……んっ?」


 ゴリっとした。

 なんだろうと思ったらマッシュルーム丸ごと。

 ……あ、せりなちゃん……マッシュルーム丸ごと入れたのか。

 半分に切るとかせず、丸ごと。

 多分圧力鍋で作ったんだと思うけど、マッシュルームの中の方はまだ固い。

 傘の部分は美味しい。プラマイゼロ。


「いよいよ肉……」


 ごくん。

 またも喉が鳴る。

 すでに口の中はデミグラスソース味。

 ほんのり香るトマトとワインの風味の中に、じっくり浸ったゴロゴロ肉をスプーンで持ち上げる。

 艶々と輝き、繊維の隙間からデミグラスソースと湯気がほわ、と溢れるその姿。

 期待、せざるを得ない……!

 なにしろローストビーフをすでに食べているのだ。

 肉の美味さは知っている……。


「いざっ」


 サイコロステーキよりも大きく切り分けられた肉を、口に放り込む。


「うっ!」


 うそじゃん?

 ……とろけて消えていくぞ?

 うそ、うそだろ? 本当に……本当に煮込んだ肉って消えんの? マ?


「………………」


 消えた。

 マジで消えんの、肉。

 うそ、本当に? は? 俺今肉食べた、よな?

 もも肉ってあのローストビーフの噛み切るのがなかなかに大変な、あの肉と同じやつだよな?

 え、なにこれ語彙が死ぬ。


「ふぁぁぁあっ……!」


 肉、牛肉……黒毛和牛、すげぇ、えぇ、ええ……!

 もう一つ、もう一つ、時々野菜……そうして食べ進めたら瞬く間だ。

 鍋いっぱいに入っていたビーフシチューは消えた。

 信じられないだろう。

 俺も信じられない。

 これが高い肉……なんかもう、人生に悔いなしってスラ思う。

 美味しかった、すごかった。

 肉が人を魅了して止まないわけだ……もはや感動。

 もう栄養バランスとか超越したなにかがそこにはあった。

 高い肉、おいしい。

 なんかもう、それだけは世界の真理だろう、間違いなく。

 俺、この先の人生でこの肉より美味しいものは食べられない気がする。


「ごちそうさまでした、と」


 美味しかった。

 とても美味しかった。

 すごい満足したし、明日お鍋をせりなちゃんに返すためにも洗わないとな、と流し場に持っていく。

 その時、気がついた。


「……デミグラスソースの鍋やばい……」


 意味が分からない奴は一度洗ってみればいいと思う。




 ***



 三月十日。

 卒業式の日だ。

 すう、と息を吸って中学の制服に袖を通す。


「…………」


 髪の毛に触れる。

 カットで整えられ、染めて焦げ茶色に見える髪に、クラスメイトは気づくだろうか?

 俺は他人に『見える』ようになるだろうか?

 母と姉の隠している父の事は……高校生になった俺が聞けば教えてくれるだろうか?

 ……聞いてみようと思う。

 それが俺を少しだけ前へ進ませてくれる気がするから、卒業式が終わったら……会う予定の母と、姉さんに。


「……、……うん、行こう」


 そう思わせてくれたのは、せりなちゃんだ。

 四日後にせりなちゃんとアーケードに行くから、俺は、それまでに『釣り合う男』というのに近づきたい。

 努力も出来ない弱く空気な自分も、今日で卒業しよう。

 不思議だな、ただ髪を切って染めただけなのに……せりなちゃんに褒められただけで、俺って単純すぎるのではないだろうか?


「いってきます」


 今日は、中学の卒業式。

 卒業、するのだ。

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