第35話 ビーフシチュー【1】


 姉の職場から戻ってきたのは夜の七時過ぎ。

 正式なバイトではないし、昨日はカラーまでされたので夜十時はすぎてしまった。

 せりなちゃんにはLINKでとても心配されたんだよなぁ。


「コウくん!」

「うあぁっ!?」


 階段を登った直後、せりなちゃんの部屋の扉が開いた。

 思わず驚いて顔を上げた。


「お、おかえり!」

「……た、ただいま……」


 きゅーーーん、と……胸が苦しくなる。

 なんだろう、これ。

 とても、痛い。

 眩しい。

 かわいい。


「! あれ、コウくん、髪染めてる……!」

「あ、う、うん……」


 もう外は暗い。

 アパートの廊下は夜になると自動で蛍光灯が点くけれど、それでもこんなにすぐにバレるとは思わなかった。

 階段を上り切ると、綿のたっぷり入った羽織を着ていて一瞬目が点になる。

 前々から思っていたけど、せりなちゃんは少し古めかしい。

 せりなちゃんの実家がとんでもなく広い日本家屋だったので、そういう影響なのだろうか。

 とはいえ、布地の柄は水玉模様でファンシー。

 今ってこういうのも売ってるんだなぁ、と感心してしまう。

 意外と……と言っては失礼かもしれないが、やはりせりなちゃんも女の子。

 ファッションにはこだわりがあるんだろうな。


「え、え……ど、どうしたの? 髪も切った? 雰囲気変わったね……!」

「そ、そうかな? あ、あのえーと、姉さんの職場の手伝いに行ってて……」

「お姉さんの職場? あの美容院……?」

「そう。姉さん、手火傷しちゃって……すごい、ドジだから……。片手が使えないから、雑用も出来ないし人手が足りないしで俺が手伝いに行ってるんだ。そしたら、なんか色々……カットモデルとかって……こんな感じにされた……」

「わぁ……すごいねぇ。さすがプロだねぇ……!」


 め、目が……せりなちゃんの目が、キラキラしてる。

 指を絡めて、俺を見てる……せりなちゃんが。


 ──『なら釣り合う男になればよくない?』


 ごくん。

 生唾を飲み込んだ。

 釣り合う男に、なれるんだろうか?

 どうやったら釣り合うようになるんだろう?

 目の前の、この、天使のような女の子と……俺が、俺みたいな奴が……そんな事……出来るものなのか……?


「あれ? でも火傷? お姉さん、手、大丈夫なの?」

「あ、ああ、うん、軽傷。ちゃんと病院も行ってるし」

「そっか……。でも火傷は痛いよね……跡、残らないといいね」

「大丈夫じゃないかな? ちょっと大袈裟に騒ぎすぎな気もするよ?」

「でも、お姉さんは女の人だし……」


 しかし姉の自業自得だしなぁ。

 あと、それをダシに長谷部さんへ無体を働こうとしていたしなぁ……!


「大丈夫。姉さんの心配してくれて、ありがとう、せりなちゃん」


 でも本当あの人の心配は必要ない!


「…………」

「? せりなちゃん……?」

「あ! う、ううん! な、なんでもないよ! なんでもない! ……な、なんか雰囲気が変わったコウくん……その、あの……とても、かっこよくなったなぁって……」

「え……」

「お、思っ……い、ま、した……」


 ……廊下の、蛍光灯のせいだろうか?

 せりなちゃんの顔が赤く染まったように見えた。

 俺は今、どんな顔になってる?

 大丈夫か?

 変な顔になってそう。

 胸が痛いぐらいに鳴っていて、苦しい。


「……ぇ……あ……あ、ありが、とう……?」


 焼けつくよな熱い喉から絞り出した声、言葉。

 緊張がものすごい。

 ドキドキしすぎて、目の前がぼんやりしてる。


「はっ! そ、そうだ……こ、これ、食べてもらおうと思ったの……あの、ま、また作りすぎちゃったから……」

「え」

「ビーフシチュー……」

「あ……」


 ああ、あの作りすぎた肉塊の処理……。

 さすがにずっとローストビーフはきついからな。


「た、たくさんたくさん煮込んだから……多分、まずくないと思うの。自分でも味見してみたんだけど、美味しいと思ったし」

「……鍋ごと?」

「つっ……作りすぎて……」


 どんだけ作ったら鍋ごと持ってこなければならなくなるんだ、せりなちゃん……。


「あの量のお肉を入れるとなると、野菜もたくさん入れないとと思って……! そしたら、いつの間にか……!」

「そ、そうなんだ……」


 繰り返された悲劇。


「……あのさ……」

「?」

「そ、卒業式が終わったら、またしばらく休みになるから……その、三月の十日以降、都合のいい日があったら……アーケードに、あのケーキ屋さん、食べに、行く?」

「!」


 あれ?

 俺、今なにを……。


「い、行く! 行きたい! 食べたいケーキ!」


 迫真!?


「あ、あの、じゃあ……」

「さ、三月十四日! ……っで……ど、どうでしょうか……」

「! あ、う、うん! そ、そうしよう! 俺、奢るよ!」

「え! ……、……う、うん……」

「…………」


 ……な、なんだこの空気。

 ヤバイ、ヤバイ、頭が、うまく……動かない……!


「……じゃ、じゃあ、あの、それじゃあ、あの、お、おや、おやすみ……」

「は、はい。お、おや、おやす、み、なさいっ!」


 バタン。

 ずるずる。


「……」


 扉の前に、座り込む。

 最近、せりなちゃんに会ったあと、部屋に逃げ込んでからこうなる事が多い気がする。

 頭を抱えて、ほくほくの鍋を部屋の敷居に置いて、頭を抱えた。

 ああ? 俺、なに……しれっと……三月十四日に、アーケードに出かける約束とか取りつけてんの?


「…………絶対萩野さんのせいだ……!」

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