第29話 ローストビーフ【2】


 ばたん。


 うわー、はあーーーっ!

 と、扉を閉めてからしゃがみ込む。

 いやいや、いやいや、なんで近さだったんだ、あれ。

 すごい、息がかかってた、かも。

 せりなちゃんの睫毛が一本一本見える距離とか、無理なんだけど、俺の心臓。

 思わずそのまま扉に背中を押しつけるようにしゃがみ込む。


「…………かわいかった」


 とても、とても。

 近くで見ても、やはりせりなちゃんはかわいかった。

 ほんの少し焦げ茶色の瞳と、長い睫毛。

 寒さのせいで赤みがかった目許や鼻先。

 前髪は切り揃えられていて、今はつけ毛で緩やかなおさげになっている。

 あれ、めっちゃかわいいんだよ。

 いや、短いのもかわいかったんだけど、ロングはロングでめちゃくちゃかわいい。

 淡いピンク色の唇とか、もろに見てしま…………うおおおおお! どこ見てるんだ俺ええぇ!

 変態かよおおぉっ!


「め、飯にしよう!」


 うん、それがいいそうしようそうするべき!


「……情緒不安定になりそうだ」


 昼間はあんなに気分が落ちていたのに、帰ってきたらこれって。

 俺のテンションおかしくなる。

 おかしくなっても、おかしくない?

 あれ、もうすでに言語能力が低下している気がする。

 語彙が、語彙が家出してないか。

 いや、もうほんとあれはせりなちゃんがダメだと思う。

 せりなちゃんは自分のかわいさをもっと自覚して欲しい。


「飲み物、飲み物……」


 ダメだ、きっと腹が減っているから、こんなダメダメになっているに違いない。

 きっとそうだ。

 なんだ、このわけの分からない責任転嫁は。

 ダメだろ、人として。

 昼間買ってきたペットボトルのお茶をカバンから出し、テーブルに置いてから電子レンジに温めるだけのご飯を入れる。

 その間に三つのタッパーを並べて悩む。

 どれから食べよう?

 とりあえずノーマルと夕飯用にもらったローストビーフ丼用のやつは食べるとして……ローストビーフ丼用は二種類。

 開けてみると、なるほど、絡まるタレが違うんだな。

 片方は玉ねぎとネギが大量に入っている。

 もう片方は半熟卵と……多分大根おろし。

 ええ、なにこれどっちも美味そう……。


「とりあえず卵が入ってるやつの方が、先に食べた方がよさそうかな」


 チン!

 ちょうどいいタイミングで電子レンジが鳴る。

 レンジから取り出したホクホク白米に、卵入りのローストビーフをのせていく。

 あっという間に完成したローストビーフ丼。

 うわ、ご飯と合わさった瞬間湯気でタレの香りまで合流してきてめちゃくちゃいい匂いになってるぅ……!


「いただきます」


 ……よ、よく考えると、今日、これから食べるこのローストビーフはくっ……黒毛和牛なんだよな?

 やばくね?

 期待値爆上がりなんですけど。

 もうこれは、今日一日あの場所でがんばった俺へのご褒美では?

 一体いくらの黒毛和牛なのかは知らないが、せりなちゃんのお父さんからの贈り物ならば間違いなく高い!

 絶対いい肉!

 なにより黒毛和牛!

 俺、ぶっちゃけ黒毛和牛とか食べるの生まれて初めて!

 うおお、変に緊張してきた!

 や、やっぱり口の中でとろけたりとかするのかな?

 期待に胸膨らませながら、まずは普通の……タレがかかっていないやつから一枚……箸で持ち上げて口に入れる。


「…………」


 硬……ん、いや、硬いわけではないけど柔らかいわけでもない……。

 なんかこう、口に入れた途端とろーって消えるのかと思ったけどまったくそんな事はなく、むしろきちんとした食感がある。

 惣菜コーナーに売っているローストビーフ丼のように、噛み切れない事もないのでやはり高い肉! って感じだけど……。


「ごくん」


 ……いや、でもよくよく考えれば牛もも肉はステーキなんかに使われる部位なんだし、髪切れるのはむしろ当たり前……?

 ちょっと変な期待しすぎたな?

 というか、若干それなら普通にステーキで食べてみたかったような気がしないでもない。

 だって黒毛和牛のステーキとか絶対やばそうじゃん……?


「……でも、なんか、すごい、肉って感じ……」


 なにを言っているか分からない?

 俺もなにを言ってるのかよく分からない。

 ただ、口の中が、肉! って感じなんだよ。

 ほんのりとした血の味。

 でも、血生臭いとかではなく……舌に味を感じる程度。

 多分これが「赤身の旨味」ってやつなんだろう。

 表面は茶色くなっていて、きちんと火が通っているから食感もしっかりしていたのだ。

 正直ローストビーフって変な食べ物だよなー、と思ってたけど、カツオのたたきの肉バージョンと思えばこの調理法ってアリだよな。

 なんかこう、ステーキとはまた違った「肉肉しい」感じが……イイ。


「あ、そうだ、卵……」


 ご飯にのっているタレつきのを一枚。

 半熟卵を箸で割り、黄身を絡めてご飯と共に口の中に運ぶ。


「ンッ……」


 ん、んまぁ……。

 語彙が死ぬ。

 卵のねっとり感。肉の食感。思った通り、大根おろしの酸味が絡み合って口ん中で「うおおおおっ」って感じ。

 しかもなんだこれ、わさびかな?

 大根おろしとはまた違ったピリッとした刺激がくる。

 調味料は多分、醤油とみりん、おろししょうがとレモン、かな?

 酸味が強いけど、その分後味がとてもさっぱりすっきりしている。

 ローストビーフは柔らかいけど噛み切るのにちゃんと噛まなければいけないから、味の長持ち感がすごい。

 ご飯に合うか合わないかと言われるとあまり合わないと思ったけど、醤油の濃い味が染み込んだあとならイケる。

 しっかり噛むからご飯の甘みが合わさると、しょうがのくせも気にならないほどどんどんイケてしまう。


「うーん、美味しかった。ごちそうさまです」


 大変美味でした。



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