第8話 RE(turn&born):SideA

 夜間作業が終わった。

「お疲れ様です」

 後輩がうんと背伸びしながら言った。缶コーヒーを差し出すと「ありがとうございます」と言ってさっそくプルタブを開け一息に飲んだ。自分も同じように缶コーヒーを啜る。

「先輩、話は変わるんですけど」

「なんだよ。また亡霊の話か?」

「いえ、ビジネスの話です。先輩、ラブリーハートでしょう?」

 コーヒーが霧状になって口からあふれ出た。自分の黒歴史が突然飛び出てかなり動揺している。

「やっぱり」

「ちょ、お前、それどこで」

「昔フォローしていた、仲間の漫画家と先輩の喋り口調が似てたんで」

「フォローしていた・・・まさかお前ハードプレイが売りの『トロ蜜ゑき太郎』か! 男じゃなかったのか?!」

「いやあ、改めてその名前で呼ばれるとかなり恥ずかしいですね。ネット上ではお世話になりました。しかし、まさかあんな甘々でキュートなラブコメ書いている人が、こんなクールビューティでできる眼鏡上司とは思いませんでした」

「やめろ。やめてくれ。これ以上過去の罪を掘り返さないでくれ」

「まあまあそう言わず。で、ですね」

「まてまてまて、人を過去と羞恥のボディーブローで悶絶させといて、さらっと話を進めるな」

「いやいや進めますとも。だって、ビジネスの話っていうのは、先輩に再び筆をとってもらいたいからです」

「ヤダよ! もう漫画書くのは辞めたんだって! どうせ評価されないなら、読み専でいいよ!」

「どうしてですか? 私、先輩の漫画好きなんですよ。あの時は誰も知らなかっただけで、知ってもらえさえすれば必ずヒットします」

「無茶だって。もう何年も書いてないし、それに今の流行とか知らないし絵柄もわからないし」

「そこは大丈夫です。超優秀な担当編集者がいます。実はですね。うちの兄貴が一山当てまして、自分で会社を興したんです。世の中にはもっと娯楽が必要だ、とか言って。娯楽の娯の字も知らなかったような人なんですけどね。才能があるのに埋もれている人をピックアップするための、互助的な働きをするアプリとそれを運営する会社なんです。ニーズを求める人や会社とクリエイターの懸け橋になるのが目的だそうです。とはいっても、私と兄貴の社員二名の小さな会社ですけどね。運営はほとんどAIがやりますし。社員は保守作業がメインで。でも私、漫画ばっかり描いてて、そういう知識皆無だったんで、こういう保守業務に派遣されてきたんです。いやいやだったんですけど、まさかのラブリーハートさんがいるじゃないですか。これは天の采配と思い、この度声をかけさせていただきました」

「でも、もう、私は」

 思い出すだけで、今でも寒気がして肌が泡立つ。たかが一つの意見、それがちょっとした批判だっただけ。それでも、私には耐えられなかった。これまで積み重ねてきたものが、全て否定されたような気がして。

「大丈夫です」

 そっと、後輩が私の手を握った。

「ラブリーハートさんが心無い批判で筆を折ったことは知っています。けれど、あの時とは違う。今度は私と、兄貴と、超優秀な担当AIと、一万以上の味方があなたのバックにつきます。くだらない批判はすぐに押し流されて、称賛の声が必ずあなたに届きます。兄貴の持論ですが、クオリティを上げたければ修正箇所を明確にすることと、めちゃくちゃ褒めることらしいです。褒めることで本人の作業効率が二割以上上がるらしいです。また、これも兄貴の持論ですけど、どれだけ優れた技術でサポートできたとしても、そのサポートを受けるべき物、あなたの作品がなければどうにもならないのです。もちろん、今の生活もあるでしょうから、兼業って形になりますけど」

 無理強いはできません。後輩は言った。

「けれど、あなたの一ファンだった者として、言わせてください。私たちと一緒に、もう一度戦いませんか。自分の作品を世に出してみませんか。今度は、今度こそは、絶対にあなたを見捨てません」

 知らず、固く拳を握っていた。小指のペンだこは、まだ硬かった。

「一つ、条件がある」

「何でしょう」

「ペンネームは、変えたい」

「・・・検討しましょう」


 数年後、河相こころ(旧ラブリーハート)の作品が世界を席巻する。

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