第49話 預かり物を返す時
片倉家の婚儀、つまり阿梅が重綱の妻となる日は、綾の喪が明けてからとなった。それに異論があるはずもない。
阿梅は綾の死をいたみ、むしろ重綱の傍にいることが辛く感じた。どうしても、その場所は綾がいるべき、という気持ちが抜けないのだ。
綾の死を受け入れ、そして阿梅が妻となる準備をする為にも、時間をおく必要があった。
阿梅はあくり姫が養子となった滝川家に、形だけではあるが養子となって、そこから片倉家へと嫁ぐことになった。
その算段も整い、じきに喪があける、という頃。やっとというべきか、重綱が江戸の屋敷に入った。
久方ぶりに見る重綱に、阿梅は緊張を隠せなかった。そんな阿梅に重綱は「落ち着いたのなら、私の部屋にきてくれ」と、静かな声で言った。
重綱の声に固さを感じて阿梅は怖じ気づく。しかし。
(後には引けない。引くわけにはいかない)
綾を思い出せば、今更、重綱に愛されないのが怖いなどと、思ってはいられない。
(小十郎様の愛する人は綾姫様だけ。それでいいのです)
重綱から何を言われても動じないよう、阿梅はそう言い聞かせて重綱のところへと足をむけた。
「阿梅です」
部屋の前で声をかけると、ほんの少し間が開いてから「入れ」とくぐもった声が聞こえた。
「失礼いたします」
阿梅が入室すると、重綱は座して目を瞑っていた。
「………………早かったな」
小さく言って重綱は目を開き、阿梅を見た。
その目は今までに阿梅が見たこともない、景綱を思い起こさせる静かな刃のような目だった。
「こちらへ」
重綱に言われ、阿梅は重綱の前へと座った。その阿梅に重綱は問う。
「お前が綾に誓ったと、そう聞いた。まことか?」
阿梅の背にひやりと汗がつたった。
そのことを、まさか重綱が知っていようとは思わなかった。いや、知っていたとして、触れてくることはないだろうと、そう考えていたのに。
阿梅はきゅっと手を握り締め、正直に答えた。
「まことにございます。私は、お方様が貴方様の唯一の人と、そうしたままでいてほしいと思いました。誓ったことに、偽りはございません」
その思いが、そして片倉への忠義が、阿梅に誓わせた。重綱から愛されず、また、愛しはしないと。
阿梅の真っ直ぐな瞳に、鋭い重綱の瞳がぶつかる。
「本気なのだな」
「はい―――――貴方様が愛したのは、お方様のみにございます」
見つめあうこと、しばし。先に折れたのは重綱だった。
「綾の言う通りだな」
ふ、と、遠くを見やるような目で重綱は呟いた。
阿梅は首を傾げた。
「お方様は、何とおっしゃられたのですか?」
「私とお前は似ている、と」
「……………そのようなことを」
重綱は阿梅の顔をとっくりと眺めて苦笑いした。そうすると瞳にあった鋭さが和らいで、阿梅の知っている重綱の顔だった。
「真っ直ぐに強くて、それゆえに弱い、か」
重綱は阿梅にさらに問うた。
「お前の気持ちはよく分かった。だが、それで後悔せぬか? お前は幸せになれるのか」
今度のそれは、小十郎としてではなく、阿梅を守り育ててきた者としての問いだった。
阿梅はそれに、はっきりと頷いた。
「私の幸せは、私が決めること。後悔などいたしません」
凛とした、いつまでも変わらぬ阿梅の顔に、重綱は目を細める。
「まこと、窮地に立たされる程にお前は美しくなるな」
阿梅は顔を赤らめた。
重綱はしばらくそんな阿梅を眺めた後、小さく息を吐くと、文机に置いてあった木箱を手に取った。
「ついに、これを返す時になった、か」
まじまじと木箱を眺めてから、重綱は阿梅の前にそれを置いた。
「何ですか?」
「………………長らく私が預かっていたものだ」
阿梅は手を伸ばし、木箱の蓋を開けた。
「これは」
そこに収まっていた物を見て阿梅の声が震えた。
木箱には懐刀が一つ。それは、父と別れたあの夜に、彼の人から握らされた物に相違ない。
「お前はもう、大人になってしまったからな」
どこか憂いを含んでいるような、それでいて感慨深げなような。そんな重綱の言葉に阿梅の瞳は潤んだ。
目の前にある物は、父、真田信繁から託された誇りそのものだった。阿梅は懐刀にそっと触れた。
阿梅は思い出した。恐怖を押し殺し、父の教えを守ろうと、この懐刀を忍ばせて敵陣に進んだことを。そして、その懐刀を取り上げ、重綱が優しく守り育ててくれた日々も、また。
激動を生き抜き、今この懐刀を返される意味を、阿梅は
(大人だと、小十郎様がお認めになった。私はこれを返すに相応しくなったのだと)
顔を上げれば、重綱は見守るように、しかしどこか揺れる瞳で阿梅を見ていた。
「今でも思い出すことがある。お前が私の前にやってきた時のことを」
豊臣家が滅んだあの戦は、多くの者達の生き方を変えた。
敵方の武将のもとへやってきた少女は、強くしなやかに顔を上げて進み、こうして重綱の前にいる。
「いったい、どこまで先を読んでおられたのやら」
重綱は阿梅に懐刀を与えた人物にあらためて驚嘆する。
「これほどの女子になるとは」
重綱はじぃっと阿梅を見つめ、それから少し躊躇いながらも口を開いた。
「阿梅、それを返した上で、そなたに頼みたい」
阿梅の背筋が伸びた。
重綱の頼みが、女子として認められた上でのものと分かったからだ。
「私の妻となり、片倉を支えてはくれまいか」
重綱はそう言いつつ、まだ揺らいでいるようだった。
「不甲斐ない私だ。お前を幸せにはしてやれぬかもしれぬ」
阿梅は思わずそれを遮った。
「私の幸せは私が決めることと、先ほど申しました。私の幸せは――――片倉をお支えすることです」
鈴の音のような声が、真っ直ぐな瞳が、重綱に向けられる。
重綱はぎこちなくも、阿梅に手を差し出した。
「こんな私の、傍にいてくれるか」
阿梅は重綱のそれに、己の手を重ねた。
「ずっとお傍におります――――我が殿」
重綱が阿梅の手を握った。
阿梅はいつもこの手に引かれ、導かれてきた。しかしこの時、阿梅ははっきりと握り返した。そして重綱の手を包むように、もう片方の手も添える。
そこにいるのは、守られているだけの少女ではない。共に戦い、支えあいながら生きていく、心強い女子だった。
重綱は子供が巣だってゆくような寂しさと、眩いばかりの成長の嬉しさと、これからも共に生きてゆける尊さと。複雑な心境をただ微笑みだけで阿梅に伝えた。
阿梅もそれに微笑み返した。
それはこれからの長い時間の、ほんの一歩にすぎない。けれど確かにこの時から、二人は夫婦として歩み始めたのだった。
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