第38話 難しい立場
阿梅が江戸の片倉屋敷で働きはじめて早数日。どうやら綾に気に入られたらしい阿梅は、食事まで一緒という甘やかされぶりに心底戸惑っていた。
(わ、私は女中として江戸に来たのですよね?)
だというのに、台所に入ることはおろか、掃除、洗濯を手伝うこともさせてもらえず、綾の側仕えという名ばかりの仕事に阿梅はほとほと困っていた。
というのも、言いつけられるのは綾の装いことやら、他の諸大名の奥方との付き合いなど、教養が備わっていなければとてもこなせない仕事ばかりだったのである。
とんでもない失敗をいつしてもおかしくない状況に、阿梅はひやひやしっぱなしだった。
しかしそんな阿梅に、綾は呑気にもおっとりと言うのだ。
「知らないことは知ってゆけばよいの。むしろここで恥をかいておいた方がずっとよいというものですよ。私がちゃんと助けてあげられますもの」
その綾の言葉はどうやら本気のようで、阿梅はいっそう弱ってしまう。
(それほどまでに、片倉家は側室を必要としているのでしょうけれど)
しかし正室の綾は辛くないのだろうかと、阿梅は心配にすらなるのだ。
重綱の意思はこの際、脇に置くとして、片倉家の周囲が「小十郎様に早く側室を」と望む一因は綾にあるからだ。
彼女は自覚があるように身体が弱く、重綱には現在、姫ーつまり喜佐ーしかいない。片倉家には嫡男がいないのである。
そして綾はもはや出産が叶わぬ身。となれば、側室を、というのはごく当たり前のことではある。
が、片倉小十郎重綱という男は馬鹿がつく程の真面目だったのだ。
周囲の心配を知ってか知らずか重綱は「私の妻は綾だけだ」と言って、頑なに側室をとることを拒否し続けている。
家臣達からしてみれば頭痛の種でしかない。そこに乱取りされたのが、真田の姫である阿梅というわけだ。
最初こそ片倉家の事情を知らなかった阿梅だったが、理解するにつけ、周囲に何を期待されているのかが分かってきてしまった。
いや、重綱に側室になってくれと望まれたのならば、阿梅だってこうも困りはしなかったかもしれない。問題は、重綱に一切その気がないことなのだ。
重綱の気持ちも分かってしまう阿梅だからこそ、自分がどういう立場であれば良いかが分からなかった。
「あら、また難しい顔をして。阿梅、笑ってちょうだいな? 貴方は笑うと本当に花のようだもの」
にこにこと笑いながら言う綾の方こそ、匂いたつ花のようだと阿梅は思う。
ついぽうっと綾に見とれてしまった阿梅に、綾はまたとんでもないことを言い出した。
「そうそう、今度、貴方の小袖を仕立てようと思っているの。生地の種類から教えますから、素敵なものを仕立てましょうね」
「えぇっ!?」
ぎょっとする阿梅に綾は有無を言わせぬように告げた。
「私の側仕えだもの。装いを整えてもらわなくては困るわ」
そう言われてしまっては断ることは難しい。
綾は阿梅の頭をまるで我が子のように撫でた。
「そういうことを経験しておくことも大切ですよ。貴方は覚えがいいもの、すぐに目利きになれるわ」
「そうでしょうか」
高価な物など見慣れていない阿梅は不安でいっぱいだ。しかし綾は確信しているかのように頷くのだ。
「貴方ならば大丈夫。前に私の櫛を選んでくれたでしょう? あれを見繕えるならばなんの心配もないわ」
「あ…………蒔絵の藤の」
京で重綱と選んだ櫛を思い出し、阿梅はあの時、重綱が言っていたことが事実だったのだと思い知った。
「まあ、覚えていてくれたのね。そう、まだちゃんとお礼も言っていなかったわ。ごめんなさいね」
「えっ! お礼だなんて、そんな」
「そんなこと言わないで。とっても素敵な櫛だったのだもの。あの櫛を選んでくれてありがとう、阿梅」
綾のお礼に阿梅は頬を赤くした。彼女の優しさはふんわりと春のような暖かさだった。
まさに阿梅が選んだ櫛に描かれていた藤の花のような。
「き、気に入っていただけたこと、嬉しく思います」
あの櫛を選んだ時、阿梅はまだ何も知らず、己がどうなるかさえも分からなかった。その中で、重綱の愛する妻とはどんな人だろうと考えをめぐらせ、その人に似合う櫛は、と阿梅は選んだのだ。
その想いが報われたような、今になってこうして繋がり、優しくしてもらえる有り難さに、阿梅は感動してしまっていた。
(小十郎様のお考えが分かります。この御方を苦しめるようなことはしたくない)
もし阿梅が側室に入りー重綱の性格を考えれば可能性は限りなく低いがーその上、男子でも産んでしまったら。
綾は、そして喜佐はどうなってしまうか。
(片倉をお支えしたい心はあるけれど…………)
周囲の期待を感じれば感じる程に、阿梅は綾を守りたいと思う重綱の心に共感していくのだ。
(私はいったいどうすれば良いのでしょう)
日だまりのような綾の優しさに甘やかされながら、己の立場がいかに難しいかを痛感してしまう阿梅だった。
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