第37話 正室綾姫
ついに阿梅が片倉小十郎重綱の正室である綾姫と対面する時がやってきた。高鳴る鼓動に阿梅は深く息を吐く。
(小十郎様はけして嘘はおっしゃらない)
そんな重綱が心底愛し、褒める女性だ。修羅場になることなど、ありはしない。…………はずだ。
すぅっと息を吸った阿梅に、「失礼しますよ」と、柔らかな声が聞こえた。
「はいっ!」
思わず上ずった声を出てしまった阿梅だったが、恥じ入る暇もなくぼうっとすることになる。目前に、小袖姿の淑やかな、たいへん美しい女性があらわれたからだ。
完璧な所作で入室した彼女が目の前に座るまで、阿梅はただただ見とれていた。
「そなたが阿梅ですね」
声をかけられ、阿梅はハッとして大慌てで頭を下げた。
「はいっ。本日より勤めさせていただきます、阿梅にございます」
「……………面を上げて、顔をよく見せてちょうだい」
緊張しながら顔を上げた阿梅はぎょっとした。
綾姫が触れそうな程の距離にいた。いや、彼女はまさに今、手を伸ばして阿梅の顔に触れようとしていた。
「お、お方様っ!?」
しかし綾は驚く阿梅の顔を両手でしっかりと挟み込み、つくづくといったように眺める。
喜佐そっくりの涼やかな瞳は馴染んで見えるものの、とびきりの美顔が目前にあり、阿梅はくらくらした。
「文に書いてあった通り。本当に綺麗な女の子」
そう言ってにっこりと微笑む綾に阿梅は言葉もでなかった。
顔を真っ赤にしてしまった阿梅に、綾は屈託なく小首を傾げてみせる。
「阿梅? どうしました?」
「あの、その」
もう阿梅はしどろもどろだ。
「お方様があまりにお美しくて。そんな方にこんな近くで顔を見られるなんて恥ずかしくて」
「まあ、嬉しい」
くすくすと笑いながら綾が阿梅の頭を撫でた。見た目は麗しいが性格はおっとりとしているようだ。
(優しい手……………小十郎様と同じ)
緊張していたことなど忘れて、阿梅はふわふわとした夢心地だった。
これ程に優しく受け入れてもらえるだなんて。片倉家には本当に感謝してもしきれない。
「が、頑張って働きます! よろしくお願いいたします!!」
「あら、本当に聞いていた通りだわ。これは注意が必要ね」
「え? 注意、ですか?」
少し眉をひそめた綾に阿梅は首を傾げる。いったい誰から何を聞いているというのか。
「ええ。貴女は張り切りすぎるから、と。小十郎様やお義母上様が」
「えっ!」
重綱はまだ分かるが、矢内の方にまでそんな風に言われていただなんて。厳しく指導されるばかりだったが、そんな評価を受けていたとは、喜んでいいやら、恥じ入るべきやら。
眉を下げてしまった阿梅を見て、綾はまた笑う。
「のんびり、急がず、焦らず、ですよ。知ってはいるでしょうが、私は身体が良くないのです。だから、私にあわせてちょうだいな?」
「は、はいっ」
「ほらほら、また力が入って。気楽に、気楽に、ね」
その穏やかな綾の口調が彼女の気遣いであると、さすがに阿梅にも分かっていた。
楓とも矢内の方とも違う綾の雰囲気に、阿梅は母を思い出してしまう。
(でも…………この方がどんなに優しくとも、甘えてはいけない)
綾はこれから阿梅が仕える人だ。
重綱の正室であり、かの人のたった一人の妻。それが綾姫なのだ。彼女の役割と重責はいかばかりか。
その上、夫が乱取りしたという娘を傍に置かなくてはならないとは。辛くあたられたって仕方がないとさえ思ってしまう。
(それをこうして受け入れてくださるのは、おそらくその先を見越してのことなのでしょう)
綾は片倉小十郎の正室として、阿梅を受け入れたのだろう。その意味が分からない阿梅ではなかった
(これは、片倉家に私を側室として迎え入れる準備なのだわ)
矢内の方も片倉家の家臣達も、おそらく政宗も、そうなることを望んでいる。その理由も、もちろん阿梅は承知している。
しかし、こうして綾が動かねばならなくなった一番の原因は――――重綱なのだろう。
(真面目もいき過ぎると困りものですね)
重綱の性格上、浮上しているこの問題は、なかなか解消しがたいものがある。それを分かった上で、重綱を説得できる人がいるとするなら、正室の綾姫より他にない。
そして、その為に阿梅は江戸へとやってくることになったのだ。これはいわば、品定め。阿梅が片倉家に相応しいか否か、の。
(お方様がどう判断なされるか分からない。第一、小十郎様はおそらく周囲の心配を解っていらっしゃらない)
阿梅としても、自分の立ち位置が分からずに困っていた。
重綱は阿梅を側室にする気がなく、しかし、周囲からはそれを望まれている。挙げ句の果ては、正室による側室選びにまで発展してしまった、この状況で。
(それでも、できる限り精一杯勤めなくては)
阿梅は覚悟を決めて綾を見つめ返した。
側室に選ばれようとそうでなかろうと、変わらずに片倉家の為に働くのだ、と。そう気持ちを固めた阿梅の前で、綾はただ穏やかに微笑むばかりだった。
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