第35話 楓と佐渡
阿梅が江戸へと行く。それを知った楓は迷った。
もちろん楓は阿梅に付き添って江戸に行きたい。が、楓は今、白石城のただの女中に過ぎない。それに白石に残されるおかねや阿菖蒲のこともある。
またも、阿梅の傍を離れることが楓の頭をよぎった。
そんな折り。珍しく重綱に呼び出された楓は、少々緊張しながらも「失礼いまします」と声をかけ、
重綱の他に、景国と―今は名を
二人の姿に、楓は自分が黒脛巾組として働かされることを想定した。
いや、今までが特例だったのだ。阿梅の傍で彼女を支えたいという、己の我が儘が許されていた方が間違いなのだと楓は思った。
「楓、こちらへ」
重綱に促され、楓は入室する。すると、景国が何故だか与惣左衛門を楓の隣へと押しやった。そのことを奇妙に感じながら、楓は重綱の御前に膝を揃えて座った。
重綱はまず与惣左衛門を見て、それから楓に聞いた。
「楓、阿梅が江戸の屋敷へ行くことはもちろん知っているな?」
「はい」
「それにあたって、お前をどうするか考えたのだが、お前は阿梅の傍にいたいか?」
「…………できますことなら、お傍でお仕えしたく思います。しかし、それはならぬことと承知しております」
重綱が深々と頷いた。
「うむ。お前ならばそう言うだろうと、そこにいる者が申してな」
重綱は与惣左衛門に視線をやり穏やかに笑った。
「そこでだ、楓。そこにいる者がお前のその思いを叶える為に、お前をめとりたいそうだ。どうする」
「………………………は?」
楓は思わず目をぱちくりとさせた。
そこにいる者とは与惣左衛門で………つまりは佐渡、と、考えが巡るまで楓は今しばらくかかった。
「えっ? どう、とは、えっ!?」
ようやく言われたことを理解した楓の顔が、見事にカッと赤くなる。
「俺の仕事上、
早口で言った与惣左衛門の脇を景国が小突いた。
「そうではないだろうが、このむっつりが」
「覚左衛門様、茶々を入れないでいただけますか」
「茶々ではない。それが妻に迎える者に言うことか、と」
二人の会話に楓はもう耳まで真っ赤だった。
「覚左衛門殿、野暮はよしましょう。私達は出てゆくから、二人で話しあったらよい。
どのみち、楓は阿梅付きにする気ではいたが、与惣左衛門の妻となればいっそう信用は増す。よくよく考えるといい」
重綱がそう言うと、景国と共に部屋を出ていってしまった。
部屋には楓と与惣左衛門の二人きり。
「楓」
「は、はいっ!」
名を呼ばれて楓が横を向けば、与惣左衛門は膝を楓の方に向けて真剣な顔をしていた。
くきゅぅと、楓の喉が変な音を立てた。
「お前が阿梅様の傍で仕えていたいという気持ちを、俺は守りたい。夫婦になったからといって、黒脛巾組になれと言うつもりもない。俺が夫というのが嫌だというのなら、もちろん断ってくれてかまわない」
「嫌だなんて、そんな!」
思わず叫んでしまって、楓はハッと声を潜める。
「佐渡様のことを嫌うなどと、あるはずがございません」
と、そこで楓はまたもハッとする。
「す、すみません。もう佐渡様でなく、与惣左衛門様でした」
謝る楓に与惣左衛門は目を細めた。
「いや、佐渡で。お前にはそちらで呼んでいてほしい」
「え?」
「楓、俺はもう真田衆ではない。覚左衛門様も。だが、真田の者であった誇りを、忘れはしない」
与惣左衛門―――いや、この時ばかりは、彼は佐渡に戻って楓を見つめていた。
「お前は、真田衆であった俺の、よすがなんだ」
楓は息を飲んだ。佐渡がそのように自分を見ていたのだとは知らなかった。
「だから、私の我が儘を守ろうとなさってくださるのですか」
「我が儘?」
「片倉家の為に働かず、阿梅様に仕えていることは、我が儘でありましょう」
口にすれば、今の自分の立場がどれだけ甘やかされているか、楓は自覚してしまう。
佐渡や景国はもう真田ではなく、片倉に仕えているというのに。楓だけがそれを捨て切れないでいる、ということが。
「だからこそ、俺はお前をめとりたい。真田を捨てられない、お前を」
佐渡の目には熱が籠もっていた。堪らず楓は俯いた。
「私は、貴方様に相応しくありません。お役に立てるとも思えません。もっと、貴方様を支えられる人が」
そんな楓に佐渡は静かに、しかしきっぱりと言い切った。
「お前以上に、俺を支えている存在はない」
思わず佐渡の顔を見てしまった楓を見つめ返し、佐渡は続けた。
「そして、お前を越える存在があってほしいとも思わない」
楓をよすがと言った佐渡が、どんな想いでこの申し出をしてくれているか。楓の目から自然と涙がこぼれた。
「何故、泣く?」
「…………………貴方様の心が有り難くて。あまりに――――幸せで」
捨てられない心ごと、楓を必要としてくれている。ならば、答えなど一つしかない。
「私、貴方様の妻になりとうございます」
「―――――そうか」
「
「いや、こちらも甲斐性無しだからな。それに、本当に形だけになってしまうやもしれん」
何時、何処で命を落とすかしれない仕事だ。しかし楓は確信していた。
「私は誰より、貴方様の強さを存じております。どんなことがあろうと、貴方様はそれを切り抜けて仕事を完遂すると」
「買いかぶり過ぎだ」
「夫を信じぬ妻がおりましょうか。私は信じております。
佐渡様はこの白石へおもどりになり、また私もこの地で貴方様に会うのです」
「楓」
佐渡はすっと手を伸ばし、楓のまなじりに溜まっていた涙を拭った。
「ああ――――その時は、きっと本当の夫婦になろう」
「はい。必ず」
どちらともなく、二人は寄り添った。
真田の者であったこと。それを魂に刻んだ二人は、こうして白石で夫婦となった。
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