第29話 水に咲く花
阿菖蒲が白石へとたどり着き、阿梅はますます張り切るようになった。女中の仕事も、矢内の方の指導も、喜佐姫との手習いもだ。
今までにない生き生きとした日々を阿梅は過ごしていた。少女らしい朗らかな笑顔がこぼれるようになった阿梅に周囲の者も驚いた。喜佐など「貴方、そんな風に笑えたのね」と言うほどだった。
そんな彼女の変化を一番に喜んだのは、もちろん重綱だ。
白石城へと帰還してからというもの、阿梅と接する機会はめっきり減っていたが、それでも時折に垣間見る阿梅の姿を気にしていた重綱である。
阿梅と阿菖蒲が再会した後、事務的な接見ではあったが、真田の姉妹と弟、四人の様子を直に見て重綱は安堵した。四人ともが幸せそうに笑いあっていたからだ。
それだけで、この子達を白石へと連れてきた甲斐があったと重綱は思うのだった。
黒脛巾組へと組み込まれることになった真田衆だが、成実が言っていたように彼らは白石を拠点に重綱と成実の連携のもと諜報活動を行うことになった。三井覚佐衛門景国は今だ京にいるが、我妻佐渡はすでに伊達家の為に働き始めている。
しかし楓は、その佐渡からの嘆願もあり二ノ丸で女中勤め、はっきりと言ってしまえば真田の遺児の世話をする仕事につくことになった。
重綱にしてみても、阿梅から楓を引き離すことはしたくなかったので好都合だった。
阿菖蒲も白石の暮らしにすぐに慣れ、歳の近い大八と共に手習いに励んでいる。全ては順調、ことも無し、といったところだ。
重綱も夏の役の事後処理も粗方がすみ、政宗からの呼び出しもない。いたって平穏な日々が白石に訪れていた。
そんな暮らしのなか、重綱は白石城の裏門から外へ出ようとする阿梅を見つけ、なんの気なしに声をかけた。
「風………ではなかった、阿梅! 外に使いか何かか?」
阿梅はここのところ滅多に重綱に会わなくなっていたので、すっかりどう対応したら良いのか判らなくなっていた。
「はい。あの、簡単な頼まれ事ですけれど。えぇと、殿は
「ん? 何をそんなにかしこまっている?」
怪訝な顔をする重綱に阿梅は顔を俯かせた。
「た、立場をわきまえねば、と。私は一人の女中にすぎませんので」
「何を今更。それにおかねや大八、阿菖蒲はもっと気安く話すぞ」
「まぁ、あの子達ときたら」
歳下の子供達は、重綱の保護のもとに伸び伸びと育てられている。だからか、恩人であり白石城の主である小十郎の重綱に、少々気安いところがあるのだ。
もっとも、それは重綱が彼らをこれでもかと可愛がっている所為でもあるのだが。
しかし、けじめはつけなくてはならない、と、阿梅は頭を下げた。
「申し訳ありません。よく言って聞かせます。私達は貴方様のお慈悲でこうして生きていられるのですから」
重綱の顔はますます渋くなった。
「それは母上、矢内の方の教えか」
「それとは?」
「卑屈な物言いだ」
「えっ」
阿梅は驚いた。重綱がこうまで不快感をあらわにする様など見たことがなかったからだ。
「あ、あの、私は、その」
しどろもどろする阿梅の手を捕まえ、重綱は「よし、私も行くぞ」と裏門をくぐってしまう。
「と、殿! 突然外出されては、城の者がお困りになりますっ」
「今日はとくに用もない。大八に槍を教えようと思っていたが変更だ」
「そ、それでは大八が悲しみます」
重綱はぴたりと動きを止め、阿梅をじぃっと見た。
「私と歩くのは嫌か」
「そういう話ではございません」
「いいや、そういう話だ。大八やおかね、阿菖蒲ですら、私に気兼ねせず生活しているというのに。…………距離をおかれるのは寂しい、などと言っておきながら」
「あっ! そ、それは、その」
「私達は家族同然ではなかったか」
阿梅は大慌てになった。
それは阿梅が女中としてこの城で雇われた日の会話だ。そんな大切なことすら、日々の忙しさに忘れてしまうなんて。
「だいたい、何だ、殿とは。小十郎様、小十郎様と呼んでいたのに」
「し、しかし、立場が」
「母上に言われているのだろうが、そなたにそんな態度をされるのは面白くない」
どこか拗ねたように重綱はぶつぶつと呟く。
「母上や喜佐とばかり仲良くなって。あげく父上の方がそなたをよく見ているとか、本当に面白くない」
「それは小十郎様がお忙しいからで。いえ、あの! その、御父上に見られているって、本当ですか!?」
狼狽する阿梅に重綱はニヤリと笑った。
「よし、小十郎と呼んだな」
「あっ!」
「さあ、行くぞ」
「で、でも大八がっ」
「姉上大好きな大八のことだ、きっと許してくれるさ。それに大八とそなたでは圧倒的にそなたとの機会の方が少ないからな。むしろ大八は遠慮するんじゃないか?」
「それは、そうかもしれませんが!」
大八の思慮深さを褒めているようにみせかけて、阿梅との外出を諦める様子のない重綱に阿梅は困ってしまった。
阿梅は矢内の方に指導を受けている真っ最中の身だ。白石城の主人、殿とこんな風に出歩いては良い顔はされないだろう。
しかし重綱が食い下がった。
「そなたは頑固だな。まぁ、端から分かっていたが。では、こうしよう。阿梅、命令だ。散歩に付き合え。その散歩のついでに、頼まれ事をすませてしまえ」
ついに命令ときた。そう言われてしまえば阿梅は逆らえない。
「ずるいです、小十郎様」
「……………まさか本当に嫌がっている、のではあるまいな?」
「嫌がるはずがないです!」
「ならばよい。さぁ、行こう」
そのまま歩き出す重綱に阿梅も諦めた。
重綱に手を引かれて、阿梅はまるで幼子にもどったような気分だった。
「それで、頼まれ事は何なのだ?」
「乾物屋へ注文の言付けを」
「ならば急用でもないな。少し遠回りでもして行こう」
水路で涼をとりたい重綱は真っ直ぐは行かずに遠回りの道を選んだ。もちろん、阿梅はそれに従うしかない。
ふわふわとした心地で阿梅は重綱に手を引かれていった。
「女中勤めはどうだ? 調子を崩したりしていないか?」
「はい、大丈夫です。丈夫なところが取り柄ですから」
「そんなことを言って、張り切り過ぎて身体を壊すなよ?」
「…………気を付けます」
白石へといたる旅の途中、阿梅が張り切り過ぎて足を負傷してしまったことは記憶に新しい。
思わず阿梅はしゅんと肩を落としたのだが。
「とはいえ、そんな無茶を母上が許すわけはないか。それに今はそなたを助ける者もいる。前のようにはなるまいよ」
穏やかな重綱の言葉に、阿梅はやはり矢内の方が気遣いながら指導してくれていることを知った。それと同時に、ただ役に立とうとがむしゃらになっていた頃とは違うのだ、とも気付くのだ。
今の阿梅には、適切に指導してくれる矢内の方が、支えてくれる楓が、肩を並べる喜佐がいる。重綱だけが心の支えであった時とはもう違うのだ。
「私、ここに来る前は、ただ必死で。貴方様や片倉隊の皆様に迷惑をかけないよう、何とか見捨てられないように、と、そればかりでした」
「そうであっただろうな」
妹弟を守る為、父に託された使命を果たす為、十二という歳には重過ぎる責任を、それでも阿梅は投げ出そうとはしなかった。
その姿は悲痛にも見えた。けれど。
「おかねに言われたのです。私の勇気が、おかねや大八、阿菖蒲を救ったと。
もちろん、小十郎様や大殿の助け、父上の選択があってこその結果だと重々承知しておりますが―――それでも」
阿梅はやっと己をかんがみることができた。
「必死で足掻いて良かったと思えたのです。私のしてきたことはけして無駄ではなくて、こうして形になっているのだって」
繋がれた重綱の手に、阿梅の気持ちはより強くなる。
「小十郎様、私、変わってゆける気がします。もっとずっと、良い女子に」
例えば、喜佐がたくさん聞かせてくれる、重綱の伯母の喜多のような女性に。
すると重綱がぴたりと足を止めた。
「まったく、そう急くなと言ったのに、これなのだから」
本当に女子というものはあっという間に成長してしまう、と、重綱はつくづく阿梅を見やった。が、ふ、と笑みを浮かべる。
「だが、そうだな。そなたが良き女子になるのを見られるならば、嬉しいものだ」
阿梅は少しどぎまぎしてしまった。阿梅より二十も歳上の重綱だったが、綺麗な顔立ちの上、笑うと無邪気で若く見えるのだ。
頬を赤くする阿梅の手を重綱はまた引いた。
「今日は暑いな。少し涼もう」
「…………はい」
水路の傍の木陰に入って重綱はパタパタと手で顔を扇ぐ。
その重綱が水路に目をやった後、阿梅を見やると、急にいたずらっ子のような顔をして奇妙なことを言い出した。
「阿梅、目を瞑れ」
「えぇっ!?」
「変なことはしない。ほら、瞑れ」
言われた通りに阿梅が目を瞑ると、ふいに重綱の手が腰に回された、と思ったらひょいと宙に浮かされてしまった。
「こ、小十郎様っ! 変なことはしないって!!」
「あ、こら、まだ駄目だぞ。目を開けるなよ」
「で、でも!」
重綱が移動する気配がして――――。
「さ、目を開けていいぞ」
地面に下ろされ、そう言われたので目を開けば、そこは大きな水路のすぐ傍だった。それも、落ちそうな程の距離。
しかし阿梅は驚くより先に、その水路、いや、正確には水路の流れの中に見惚れてしまった。
「綺麗」
清流の中には美しい緑の植物と、小さな白い可憐な花が幾つも幾つも咲いていた。浮かんでいるのではない。水中に咲いているのだ。
真っ白なその花が、きらめく清流の中でゆらゆら揺らめいている様子は、いかにも涼しげだった。
「梅花藻といってな、水の中に咲く花なのだ。綺麗だろう」
「はい! とっても素敵です!」
自然と阿梅に笑顔が浮かんだ。ぽっと花が咲いたような阿梅のそれに。
「そなたのような花だ」
重綱は呟いていた。
「水の中でも、ああして咲いてゆく。可憐な花だ」
慈しみに満ちた声に、阿梅はまともに顔を上げることができなかった。
「どうした? もっと笑え、阿梅。私は笑っているそなたが見たい」
どこまでも真っ直ぐな重綱の言葉は阿梅の顔を真っ赤にさせる。
「ま、またの、機会に」
「何だ、それは。……………しかし、そうだな。無理矢理笑わせても意味がないな。また、今度だな?」
「は、はい」
「では、またこうして出かけるとしよう」
「はい……………あっ!?」
うっかり、また一緒に外出する約束をしてしまったことに気付いた阿梅だったが、遅かった。重綱はしたり顔だ。
「たくさん案内してやるからな」
果たして、そんな暇があるのか。いや、重綱のことだ、阿梅の為に時間を作って連れ出すかもしれない。
「ほ、程々で! お願いします!」
いたたまれずに叫ぶ阿梅の頭を、重綱は笑いながらくしゃくしゃと撫でた。
「分かった、分かった。約束だぞ」
「……………はい」
重綱にとって阿梅は家族同然。喜佐となんら変わらない存在であることを阿梅は痛感する。
それにほっとする一方で、阿梅はほんの少しだけ胸に痛みを覚えるのだが。それすらも少女は糧として。
花開く時を待つように、水中に揺れる花のように、大きな存在に心をゆだね、今はまだたゆたっているのだった。
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