4


 雨が屋根と窓を打つ音が涼やかで、自室を水槽に思わせる。アクアリウムで呼吸するぼくは深海魚で、ベッドに五体が沈んでいく。

 夜も深くなってきた頃、母がノックもせずに入ってきた。

「なに」

「電気もつけんで、なんしよん」

「別に」

 それから母は謝りなさいよ、とか、言い過ぎよ、とか、わかりきったことを一通り説教したあと、

「パパ、ほんとに出て行ったよ」

 とつぶやいた。

「うん」

 ぼくらはわかりきっていた。父がちゃんと帰ってくることを。だから母も、「どうせ戻ってくるだろうけど」ということは口にせず、

「あたしのこと庇わんでいいから。パパの味方してやんなさい。パパも必死なんよ、色々と」

 と言った。雨が少し弱まって、自室も穏やかな水音に包まれていく。

「庇ったわけじゃねーわ。なんか、悔しいだけ。ほんとはパパすげーのに、なんで一回屋根落ちて、自律神経乱したくらいで、あんな……」

 めっちゃ悔しい……と息をかみ殺すようにつぶやく。強い口調で話し続けると、また涙が溢れそうになるから。

 母は、ちゃんと明日謝りなさいということだけ強調して、出て行った。

 それからはまた電気を消して、優しい雨の音を聞きながら、うずくまって涙を流した。「なんで」「どうして」が涙になってボロボロ溢れて、水中になった自室で一人、喘ぐように泣いて一夜を明かした。ずっと昔の父の声を思い出しながら、子供でいたいと強く思った。ティーンエイジを抱いたまま、永遠に眠っていたい。


 次の日の夕食時、父は全員に「まあ座って、座ってくれ」と促して、あらたまってぼくの方を向いた。

「悪かった。俺も仕事で疲れとった、昨日は。でも言い訳にする気はない。ごめんなさい」

 眉を八の字にしてそう言うと、父は頭を下げた。その拍子に、何かの薬が入ったびんがテーブルを転げ落ちた。ぼくは伏し目がちの姿勢を直さない。いや、直せなかった。やっぱりどこか、言葉にできない悔しさが、確かにあった。

「かいと!」

 お前も、と母に促され、「ごめんなさい」と、ようやく謝ったら、父は唇をキュッと結んで頷いた。ぼくは、煙たい心を抱えたまま夕食をさっさと済ませ、また自室にこもった。今日は大学が休みだったのでほぼ一日中部屋にいるが、頭が狂いそうだ。入院していた時の父もそうだったのだろうか。

 深夜、家族全員が寝ただろう時間にぼくは起き出して、天文台スペースに入った。ここに来るのは久々。当時父と隣り合わせで座っていた小さなソファーも、今じゃ二人では座れないだろう。ボフ、と勢いよく腰掛けたら埃が舞って咳が出た。

 それから、ろくに星も知らないぼくは、立派な望遠鏡でひたすらに夏の大三角だけを眺めた。望遠鏡から片目を外して、三つの一等星を人さし指で結ぼうとしたけれど、曇っていて一つは隠れている。

 父こそが、ぼくにとっての一等星だ。

 細腕を見つめる。浮き出ている血管が木の幹みたいに張り付いていて、その内を流れる血を思う。父とつながる血潮が信じられないくらい弱いぼく。父が見えない何かと戦っている気持ちはわかるんだ。でも、ぼくに強烈な光を浴びせ続けた父の残像が、いくつになっても離れない。

 ふゆだって、ぼくにとっての一等星だ。ぼくには勿体ないくらい眩い笑顔とビジュアル、なんで付き合えているのかわからないくらいきれいだ。そんなふゆが自分のことを好きじゃない気持ち、わかるにはわかるんだ。人間誰しも、自分を完璧だとは思えないから。そこに程度の差こそあれど。

 雲が猛スピードで流れて、大三角が姿を現す。

 ぼくは十九年ずっと甘えていた。今、空を流れる雲をこえる速さで、ハタチが近づいている足音が聞こえる。向き合う時がきている。

 星だけ眺めて生きるのは、もうやめにしよう。

 覚悟すると、ひ弱なぼくの足はすくむ。でも、いくら怖くても、自分のこと、未来のこと、人生のこと、全部誰かに任せていたいぼくは、ここで終わりだ。

 星だけ眺めて生きていたら、朝がきたら生き方を見失う。そんなんじゃ、自立なんか程遠い。父を支えるだなんて偉そうなことは言えないけれど、ぼくが独り立ちして、羽ばたいていくことが、最大の親孝行なのかも。その準備すらぼくは怠っていたんだ。一等星になるなんて大それたことは言えない。でも、甘えるのはもう終わり。手の甲で力強く涙を拭って、ぼくはぼくに「泣くな!」と叫んだ心内、夜はまだまだ終わらない。

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