3


 またなんでもないデートの帰り。

 心臓を鳴らすのが、ときめきから怯えに変わったのはいつからだろう。冷や汗をかくように血液が全身を巡って、体が硬直して上手く話せない。頭上にきらめく夏の大三角を首が痛くなるまで眺めて、隣のふゆが口を開くのを待った。

 川のせせらぎと、遠くで地面を擦る車の音だけが聞こえる。まるで夜の淵に沈んでいるみたいだった。

「疲れちゃった?」

 痺れを切らしたのか、ついにふゆが話しかけてきたので、ぼくも沈黙をやぶる。

「……考え事をしてただけだよ」

「なに考えてたの?」

「うちの父親のこと」

 前にも話したと思うけど……と続ける。


 ……パパが落ちた。

 ……屋根から。

 というメッセージを母から受け取った時、ぼくは入学したばかりの大学にいた。父は瓦屋で仕事をしているので、屋根から落ちることは稀にある。初めてではない。

 骨折とかしてなければいいけど、と気楽だったぼくは、

 ……まじかー。

 と、大した緊張感もなしに送った。しかし母から「危なかったけど」「しんだりはしてない」「でも大怪我」「今さっき手術終わったとこ」と連続して送られてきたメッセージを見たときは、心臓に風穴があいた感覚がした。

 命を脅かされた?

 あの人が?

 次の日、父と少ない時間だが病室で面談ができた。三人の妹と、母も一緒だった。父は大量の管と包帯に巻かれていた。

「しぬかと思ったわ……」

 と、しんだような声で囁く。ふくみ笑いをこぼしながら、

「さすがやな、それで生きとるとか」

 とぼくがボロボロの身体を指さして言うと、

「笑わせんな」

 笑ったら色んなとこに激痛が走る……と言う。いつも通りの父でホッとした。

「腕相撲しよ」

 ぼくは父の力のない腕を倒して、ハッと笑った。父はこれまた力なく、

「お前サイテーやな……笑わせんなまじで……」

 とつぶやく。これだけで、ぼくは安心しきっていた。またすぐに死の淵から這い上がって、バリバリ仕事をする最強の父親へと復帰するんでしょう? ぼくが見舞いに行ったのはこれっきりだった。


 帰ってきた父は、以前のような父ではなかった。

 何ヶ月か続いた入院生活やリハビリで精神の安定を蝕まれたのか、必要以上に家族にあたることが多くなった。

 例えば、帰ってくるなり、小学生の妹にちょっかいを出す。これだけならいいものの、最終的に、

「ぜーんぶ俺のせいなんだろ!」

と、逆ギレしたり。

 例えば、耳が悪いと言って、テレビの音量を近所迷惑なレベルにまで上げたり。見かねた母がイヤホンを勧めたけれど、全く聞くそぶりを見せないどころか、あまり言うと怒っていた。なので、最近は母も何も言わない。

 これらは大抵、薬が切れた時の行動で、父は頻繁に精神科を受診していた。その事実が、ぼくにはとてもつらい。いつしかぼくは父と目を合わせるのが苦手になっていた。


「つまり、怪我してから前より自己中になっちゃったって話だよね」

 ふゆが髪の毛の触覚を人差し指に絡ませながら言った。続けて、

「でも……いいじゃん」

「なにが?」

「それでもお父さんのこと好きなんだから、いいじゃん」

「うん……」

 以外、返す言葉もない。夏が溶けきった風がぬるい。ふゆはぼくの話を聞こうともしないし、ぼくに話をしようともしない。ぼくら今、夜の淵にいるみたいなのに、心同士は全然淵にはいない、もっと浅いところでびびっている。ふゆはなにを怖がっているんだろう?

「だからさ、ふゆも話してよ、お父さんのこと」

 しばしの沈黙のあと、

「……あいつが酔って、お母さんの首絞めたから、わたしが止めたら、わたしが……」

 その先は、夜闇に混ざって消えていった。沈黙の再訪。ぼくは、こわごわとふゆの左手に右手を伸ばす。

「ちがう」

 と、ふゆは言って、一瞬つながれた手をほどいた。

「ちがう?」

 出来る限りの優しいトーンで尋ねたぼくの顔は、ひどいものだっただろう。

「うん。わたし、やっぱり徹底して楽しくてしあわせな雰囲気の中だけで、かいとからの好きを感じたいな」

「ぼくはそれだけじゃダメだと思うんだ」

「うん。わかる、わかるよ。でもね、わたしはわたしが好きじゃないの」

 困り眉で微笑むふゆがきれいで、ぼくは見入って沈黙してしまう。どうしてこんなにきれいなのに、自分のことが嫌いなんだろう?

「お父さんの話をしてる時の、憎しみに満ち満ちたわたしの顔、とてもじゃないけど、かいとには見せられない。かいとが受け入れるとか、受け入れないとかじゃない」

 これはわたしの問題なの、とふゆは言う。

「ごめんね。わたしも、かいとのお父さんと同じで、自己中みたい」


 そもそも、ふゆからお父さんの話を聞いたとしてぼくはどうするだろう。

 デートから帰ってすぐ、ぼくは思考の海へと潜っていた。ふゆのお父さんに殴り込みに行く、これはふゆがきっと悲しむ。ふゆのお父さんに嫌がらせをする、これも同じこと。ふゆを安心させる。言葉で? 行為で? どちらも拒否されたばかりだ。ぼくはふゆに何もできない。弱いから。

 考えることをやめたくて、自傷に走る。自傷と言っても、ただ腕立てをするだけ。今日は埃くさい床に鼻を近づけてから、なかなか腕が伸び上がらず、ずっと両腕がプルプル震えるだけ。背中に鉛でも乗せているようなだるさがあった。

「くっそ……」

 床に五体を投げ出して、汗だけダラダラかいたぼく。弱さと向き合うことのつらさは異常だ。父はリハビリしていた時、これ以上の弱さと向き合ったのだろうか。鎧みたいな筋肉が上手く動かないつらさ、悔しさ……いや、それでも這い上がるのが父だ。現に筋力も体力も衰えたくせ仕事復帰しているのが父。ここで汗を拭ってもう一度立ち上がれないのがぼく。

 父の背中が、果てしなく大きい。

「ごはん!」

 とかすかに母の声がして、ぼくはようやく床から離れた。


 ぼくが階下に降りると、妹三人と両親はもうテーブルに座っていた。

 食卓に並んだ父の表情は不機嫌そうだった。うっすら開いた目が何かを睨んでいるよう。スロットで大負けしたか、仕事で嫌なことがあったか、どっちかだろう。父がぼくを睨むことは基本的にないが、きっとぼくが一番に視線を外している。こわいというより、嫌だから。大抵、こういう時の怒りの矛先は母にいく。

「お茶がねーんやけど!」

 はあ、とため息を吐く父。母は「ごめんなさいねー」と呟いて席を立ち、お茶を注ぐ。妹三人は黙っている。

 ぼくは気がつけば「正しさ」と「間違い」の旗を両手に持って、ジッと構えていた。ソースをかけたとんかつを口に入れながら鼻先を見つめて、自身の落ち着きを求めた。間違いなく、感情が昂ぶっている。

 父の愚痴は続く。

「醤油もねーし!」

 醤油がないのなら、自分で取ってくれば良い。仕事で疲れていると言っても、あの言い方はないだろう。正しくない。間違いの判定。

「白飯少ねーわ、足りんし」

 少ないなら……これも、同じこと。正しくない。間違いの判定……。

 惨めな父は、どうしても見ていられない。

「自分でやりゃあいいやん!」

 目を見開いて叫んだ瞬間ぼくは、血がのぼる感覚を初めて知った。イマイチ喉奥から大声が出てこず、少しかすれた。大学生にもなって怒り叫ぶことなんて、ほとんどないから。

「イライラしとるけって、あたるのやめたら! おかしいやろ!」

「なんちか!」

 父も真っ赤にした目を見開く。

 なんちか! と叫ぶ父の大声はビリビリ肌が震える。正しい大声の出し方……。こんな時までぼくは正誤のジャッジをしている。というよりも、現実感がとうに消えて、客観的に場面を眺める感覚で、ただその場で父とぼくが叫びあっている。お互いが泣いているようにも思えた。

 父はまた何か叫んで、茶碗と皿をまとめて放り投げた。ぼくら家族が囲うテーブルから離れた、ソファーの方へ。皿も茶碗も割れ散らかって、夕食のメニューだったサラダとトンカツが床に四散した。

「もういいわ! でていくわこんなとこ!」

 食器の破片が散らばる中を、父は威風堂々歩き、ぼくはその背中を懸命に睨んだ。父はドアを乱雑に開け閉めすると、自室に戻っていった。

 割れた食器と散乱した夕食を、素早く片付け始めた母の背中も嫌だった。チッ、と小さく舌打ちをしたら、途端に涙があふれそうになった。

「あんたが言う必要ないでしょ!」

 と、母が不意に言った。

「許せねーだろ、あれは」

 母はまだ何か言っていたが、水中にいる時みたくぼんやりとしか聞こえず、ただ溜まった涙がこぼれ落ちないよう、残りの食事を片すのに集中していた。妹たちは何も言わない。

 自室に戻ると、いつも通り写真の中で父が笑っていた。茶色の瞳を優しく輝かせて。今しがたの怒りの灯った赤い瞳が思い出されて、ぼくは溜めていた涙たちが崩壊するのを止められなかった。

「こんなんじゃ、ふゆンとこの親と変わんねーわ……」

号泣は何年ぶりだろう。頭の中で昔の父の「泣くな!」が反芻して、溢れる涙が止められない。泣くなと叫ぶ父の優しい瞳が忘れられない。

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