第10話 幸せってなんやっけ

 じゃあ死体はよろしくと言って、タマちゃんがベンツに乗って帰った。腰を一二〇度に折ってそれを見送っていたアホが、車が見えなくなると、


「オーナーの気が早いのにも困るね。どう考えても、きみのデビューはまだ早いでしょ。実際、じいさん一人殺しちゃったしね」


「え? あれ、わしのせい?」


「力任せに揉んで、心臓に負担をかけたんじゃない? まあ別に気にしなくていいよ。これもまた勉強さ」


「そんなに強くやらんかったけどなあ……」


 ピーポーピーポーと救急車が来て、タコ社長を運び去った。これでもう、あのホラ話が聞けんのかと思うと、少々寂しい気がした。


「さ、店に戻ろう。ぼくがマッサージを教えてあげる。といって、自分が仕事しないで楽するつもり」


 あいているマッサージルームに入ると、アホがごろんとベッドに横になった。


「どこ揉みまっか?」


「足、足。それから手首の小指のほう。次に背中から腰まで全部。また手首の小指のほう。あと首、ネック、ネック!」


 なんかデジャブやなーと思いながら言われたとおり揉んどると、そのうちアホがイビキをかいて寝始めた。


 アホらしいからアホを残して部屋を出た。すると、通路で古参兵に会った。


「時間があいてたら、少しでも勉強しろ。二階の事務室に本があるから」


 事務室に行ってみた。そしたらイッチが、電卓や電話が置いてあるデスクに向かって、本を広げてなにやら読んどった。


 イッチは本から顔を上げると、嬉しそうな顔して、


「やあ、ユエナ。すごいね、もうデビューして」


「でも殺してもうた」


「こっちに来てまだ丸一日にもならないのに、これでもう二人も死ぬのを見たね。これじゃあ人口が増えないはずだよ」


「その割りに、お客さんよう来るな」


「安いもん、ここ。オーナーはやり手だよ。従業員を恐怖で支配して、薄給でこき使う。実に社会勉強になる」


「夢のくせに、夢のない話やな」


「夢は現実を反映するのさ」


 わかったようなことを言って、内藤陳が決めゼリフをかましたときみたいに得意げに笑うと、開いた本にまた目を落とした。


「なに見てんねん」


「解剖の教科書。主任が、明日の朝テストするから、それまでに骨の名前を憶えておけって。まずは手と足から」


 わしも本を覗いた。ガイコツが、「ゆーとぴあ、よろしくねっ」のポーズをしとる絵が描いてあった。


「なかなかオシャレな本やな。ほほー、肋骨は六本でも百億本でもなくて、二十四本やったんか。勉強になるな」


「太ももの骨は大腿骨で、すねの骨は二本……腓骨と脛骨か。内側のくるぶしは内果で、外側は外果っていうんだって」


「そんなん憶えてなんになるんやろ。客のためにはならんで」


「テストのためだよ。ふんふん、二の腕の骨は上腕骨で、前腕は橈骨と尺骨か。なんだか字がムズカしいなー」


「そのトーコツだかシャッコツだかを、今日はえらく揉まされたで。そんなんより、ツボの本読んだらどや。そっちのほうが実用的やろ」


「たぶんこれかな」


 本棚からイッチが抜いた本の表紙には、深海魚みたいな顔したジジイが白衣着て、両手の親指を突き出した写真が載っとった。


「指圧の心はママの味……変な題やな。エドはるみみたいなかっこして。このジジイやったら、ケーシー高峰のほうがよっぽど男前やで。深海魚の中では」


「わ、これもっとムズカしい。肩井、合谷、手三里だって。全然読めないや」


「読めんでもええねん。わし、調べたいことあるんや」


「なに?」


「レイに押されたツボや。わし、眠らされんようきばって、全部憶えたさかい。手の指、まぶた、首すじ、足首のまわり、最後はどてっ腹っちゅう順番やった。このツボがどこかわかれば、帰れるんとちゃうかな」


「見てみよう。ひえー、指のツボだけでもたくさんあるよ。小商、大腸、小腸、心穴、三焦、肺穴、肝穴、少衛、腎穴……」


「お経みたいに読むな。織田無道思い出すがな。ほんで、そのツボ押すとどうなる?」


「カゼが治って胃が丈夫になって乗り物酔いしなくて肌荒れと鼻炎と痔が改善する」


「さすがツボは万能やな。次行くか。まぶた」


「これかなあ……魚腰?」


「そこ眉毛やな。もっと目んとこやったで」


「睛明? 四白?」


「ちっとわからんな。効果は?」


「顔やまぶたのむくみ、目の疲れ、ドライアイ解消」


「まあ、そんなもんやろ。首は?」


「天柱、風池、完骨、風府」


「どれもちがうな。もっと首の前のほう、のどの近くやで」


「じゃあこれかな、人迎?」


「近いな。なんに効く?」


「高血圧とイビキだって」


「失礼しちゃうわー。次、足首」


「足の裏じゃなくて?」


「ちゃうな。内側のくるぶしと、踵のあたりやった」


「内果と踵骨だね。とするとこれだ。照海、三陰交、大鐘、水泉、然谷」


「なんに効く?」


「不眠症、婦人病、泌尿器・生殖器障害、神経衰弱」


「もうええわ。最後、腹や」


「中院、天枢、関元」


「こん中じゃ、二つめのやな。へその辺やったから」


「天枢だね。あ、これ、万能のツボって書いてある」


「全部万能っちゅう気ィするわ。いちおう効果を聞いとくか」


「下痢、便秘、膀胱炎、精力減退、冷え性、生理痛、生理不順、子宮内膜症」


「ホンマに書いとるか……ホンマや。糖尿病にも効くらしい。えらいなー」


「だけど、これ調べても、意味ないんじゃない?」


「なんでや」


「ぼくたち素人だから、うまく押せないよ。ちょっとでもポイントがずれるとダメでしょ」


「わし、五十年に一人の天才やで」


「でも、ツボの数はこんなにあるんだよ。どの組み合わせかわかる? 押す強さと角度と時間は? そもそもユエナが憶えてるのは、向こうからこっちに来るツボでしょ。こっちから向こうに帰るのも同じツボでいいの?」


「わしかて知らんわい。結局タマちゃんに訊くしかないな」


「無理だよ。ぼく十年は帰してもらえない」


「やっぱし現実が恋しゅうなったか?」


「どうもここブラックだしね。高校行ってたほうが楽だったかも」


「ほなわしと帰ろう。タマちゃんなら大丈夫。赤ちゃんバブバブとお尻ペンペンの秘密握っとるんや。これで脅迫したらきっと白状する」


「でもほんとにオーナーは知ってるのかな。アテにならないよ」


「なにい? 訊く前から負けること考えるバカいるかよ!」


 気合一発ビーンと張った。


「痛い! なんでビンタするの」


「やれんのか、おい!」


「ちょ……やりますよ! ○×&%$#△!」


 あのおとなしかったイッチが、なにやら叫びながら張り手を返してきた。わしの猪木ギャグが効きすぎて、マッチョ・ドラゴンの魂が乗り移ってしまったようや。


「あ、ごめん、つい」


「ええんや。いいビンタやったで」


「ユエナ」


「なんや」


「好きです」


 ぎょっとした。


「もう、勘弁してくれ。密室でなに言うねん。おまわりさーん」


「感謝してるんだ。岩井勇気、じゃなかった、生きる勇気をくれて」


「そんなんやってない! 夢見たんやろ、夢を」


「空海の松のところで、三百歳まで生きろって言ってくれたでしょ。あれでパーッと未来が開けた。ぼく、生きるよ」


「おう。きばって死ぬまで生きてくれ」


「ありがとう。できれば、ユエナと生きられたらいいな」


「やめろ! おどれはセリイがええんやろ」


「サイレントは捜すよ。たぶん、このすべての鍵は、彼女が握ってる」


「どういう意味や?」


「わからないけど、とにかく彼女に会って、どうしてぼくの夢に出てきたのか教えてもらおうと思ってる」


「ほんだら、そのままセリイと結婚したらええやん」


「ユエナ、将来ぼくと、結婚してくれる?」


 腰が折れそうになった。


「結婚……ちょい待ち。よう言えるなそんなこと」


「ぼく、一生懸命働くから。ユエナみたいな天才じゃないけど、頑張るよ」


「条件あるで」


「年収?」


「それも大事やけど、もっと大事なことや」


「なに?」


「一生わしに触らんでほしい。約束できるか」


「……ハグも?」


「そや。指一本触れたらアカン。そんなら結婚してやってもええで」


 するとイッチが、お陽さんみたいに明るく笑った。


「ありがとう! いつかぼくが立派になったら、よろしくね」


 ずるっと足がすべった。


「アホか! ちゃんと人の話聞いとったんか。一生触るな言うたんやで」


「聞いたよ」


「ほんでええのか。おどれ病気か?」


「たぶん健康」


「だったら……ほかになんぼでも、触らせてくれるおなごおるで」


「ユエナじゃなきゃダメだよ。これ以上の人には、もう二度と出会えない」


 事務室を飛び出した。


 息が吸えん。真っ白な頭のまま、受付に駆け込んだ。


「どうしたの、ユエナちゃん?」


「頼む、イチゴ姉さん、わしの部屋に来とくれ」


 サンマルチノを連れて二階に上がろうとした。が、逆にカナディアン・バックブリーカーの形に担がれて、部屋まで運ばれた。


「なにがあったの、セクハラ?」


 ベッドにわしを置くと、サンマルチノが心配そうに訊いた。


「求婚された」


「……タマネギ?」


「ちゃう。プロポーズや」


「えっ? 誰に?」


「イッチ」


 言うたとたん、蛇口が壊れたみたいに涙が出て、サンマルチノの胸に顔を押し当てた。


「よかったわね、ユエナちゃん。苦労したから報われたのよ」


「ちゃう、ちゃう。そんなん全然ちゃうねん。わし、けがれとるねん」


「ちがうのよ。今のあなたはきれい」


「男に触られたらと考えると、ジンマシン出てきて吐いてまう。死にとうなんねん。だから無理やねん」


「徐々に慣れるわ」


「嫌や! イッチはものすごいええやつなんや。善人の見本、人類の鑑や。わしとはまるっきり釣り合わん」


「善人はあなたよ。初めてオーナーに意見したすばらしい人よ。あなたたちほど似合いのカップルはないわ」


「わし、男を幸せにできん。イッチみたいにええやつを、不幸にするなんて、わしには絶対耐えられん!」


 声を上げて泣くわしを、サンマルチノがベアハッグで絞めた。


「なんて優しい子。一ノ瀬くんは幸せよ」


「逆や。不幸のズンドコや」


「彼はあなたに触りたがるの?」


「逆や。指一本触るな言うたら、ありがとう言いよった」


「じゃあいいじゃない。早く彼のところへ行って、ふつつかものですけどよろしくって頭を下げてきなさい」


「……ホンマにそれでええ? 男は寂しないか?」


「約束破って触ろうとしたら、わたしに言いなさい。必殺マシンガンキックを見舞ってやるから」


「まあ、指一本くらいなら、許したってもええけど」


「じゃあ指一本ならいいよって言ってくるのよ。さあ、早く!」


 部屋を出て、事務室の前に立った。そーっとドアを開けると、本棚の前にしゃがんだ、カエルの制服の背中が見えた。


「あ、あのな。指一本くらいなら、触ってもええで」


「え?」


 驚いた顔をして、変態オヤジが振り返った。


「触ってもいいって、どこ?」


 悲鳴をあげた。するとすぐさまサンマルチノがとんできて、変態オヤジをボディスラムで叩きつけた。

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