第7話 生理的にキモい
マッサージ館に帰ったら、電飾が消えて、本日終了の札が出とった。
「うちは朝九時から夜九時までの健全経営だから。最後の客が帰ったら、掃除洗濯メシ風呂寝る。あと細かいことはイチゴちゃんに訊いて」
古参兵の指示で、イッチと二人、サンマルチノについて二階に上がった。
二階には、食堂のほか、洗濯室、シャワールーム、事務室なんぞがあり、住み込みのスタッフが寝起きする個室も四つあった。
「今住み込みしてるのは、主任と永作くんのほか、山岸さんと阿部くんという男性のスタッフ四人なの。永作くんと阿部くんは年も近くて仲いいから、今日から一つの部屋に住んでもらう。一ノ瀬くんは、山岸さんと同じ部屋。ユエナちゃんは、あいた部屋を丸々使っていいよ」
「えらいすんまへんな」
「昨日まで永作くんが使ってた部屋だから、ちょっと男臭いかも。さっき暇だったから掃除して、ベッドメイクもしといたよ。敷いてある布団はわたしんちから持ってきたお古だけど、嫌だったら新しいの買ってあげる」
「……姉さん、親切でんな」
「みんな親切よ。だから生きづらかったの」
じゃあねと言って、サンマルチノは帰った。すると、顔の下半分に青黒いヒゲを生やした、胸にオタマジャクシのバッジをつけたオスガエルが近づいてきて、
「きみらの教育係りをやることになった、山岸です。どうぞヨロピク」
中年が受けようとして、くだらないギャク言いよった。わしは一瞬で嫌いになった。こいつのことは、変態オヤジと呼ぼう。
「ところでとおるちゃんは、無事帰ってきたよ。ユエナちゃんの言うとおりだったって、主任も喜んでた」
変態オヤジに気安く名前を呼ばれて、さぶイボが全員起立した。わしは直感的に、さっきの殺人犯はこいつちゃうかと思った。
「まず最初に、いちばん大事なことを教えておこう。ここでは一日でも早く入ったものが先輩であり、先輩の言うことは絶対である。はい、メモして!」
「メモなんて、持ってまへんがな」
「なにい、メモがない? 言われたことをメモするのがいちばん大事じゃないかあ! 今すぐペンとメモ帳を買ってこい」
「金、持ってまへん」
「口答えするなあ! 先輩が白と言ったら、松崎しげるも白いんだあ!」
ツバがかかると皮膚が溶ける気がして、ウェービングで間一髪避けた。
「兄さん、理不尽でっせ」
「そのとーり。ここでは理不尽が法律だ。ワタシは昨日までいちばん後輩だった。だから、みんなからさんざん理不尽を言われた。しかし、今日からは二人も後輩ができた。先輩になれて天にも昇る思いだ。だからきみたちに理不尽を言うのだ」
「そんな先輩、尊敬できん」
「なんだとお。もういちばん大事なことを忘れたのか。メモしないからだ!」
「あんまり威張ると、タマちゃんに言いつけまっせ」
「タマちゃん? 誰だそれ」
「オーナーはん。そう呼ぶんでっしゃろ」
「な……オーナーのことを、タマちゃんだとお!」
するとそのとき、食堂からシュッとしたキツネ顔がシュッと覗いて、
「ギシさん、今、オーナーのこと、タマちゃんって言いました?」
そう言いながら、長い脚でシュッシュと歩いてきた。
「ダメじゃないですか、レディをいじめちゃあ。優しく教育しないと、みんなにギシさんがオーナーのことを、タマちゃんって呼んでたって言いますよ」
「で、でも阿部さん。この子は先輩に口答えをしたんです」
「今ギシさんのしてることが、口答えじゃないですか。先輩に言われたら、はい以外の返事はしないでください」
変態オヤジがシュンとなった。わしはこの阿部っちゅうオスガエルを見て、こないにちゃんとした、女にモテそうなクールなイケメンが、なんでこっちの世界に落ちてきたんやろうと不思議に思った。
「もう大丈夫だよ、お二人さん。安心して働いて」
イケメンガエルはそう言うと、わしの顔をじっと見て、
「この子はかわいいけど、ぼくのタイプじゃない。清楚じゃないし、せいぜい六十点というところだ。使い走りにしよう」
ズバッと言うと、
「こっちのガキはお荷物って感じだな。奴隷のようにこき使おう。それで潰れたら、放り出せばいい」
イッチが口をあんぐり開けた。イケメンはそれも意に介さず、
「まったく、山岸の顔はいつ見ても気持ちが悪い。吐き気がする。だからこれからもみんなでイジメよう。イジメというのは本当に楽しいなー」
変態オヤジが顔の上半分も青くした。わしはちょっと腹が立った。
「兄さん、聞き捨てならんな。どないな世界でも、イジメが楽しいっちゅう法はないで」
「え? ああ気にしないで。心の声が出ただけだから」
「心の声? そんなもん、しまっときいな」
「そういう器用なことはぼくにはできない。なぜならぼくは、正直者だから」
ニッと白い歯を出して、クールに笑いよった。
「せやけどな、人を傷つけることを言うたらアカンで」
「じゃあ本当のことを言わないで嘘を言うの? ぼくは、嘘ほど汚いものはこの世にないと思う。正直こそ最大の美徳だ」
「イジメが楽しいいうのも美徳か?」
「だって、本当のことだから。ぼくはそれを言わずにはいられない」
落ちてきた理由がわかった。こいつはアホの中のアホや。だから仇名はシンプルに、アホいうことにした。
「山岸は連続幼女誘拐犯だから注意しな。触るとバイキンがうつるよ」
そう言うと、アホは食堂に帰っていった。
「それはひどいよお。ワタシは子どもに面白がられて、石投げられたり、勝手に家までついてこられたりしただけなのに……」
変態オヤジがしゃがみ込んで、オイオイ泣きだした。わしはつい同情し、
「兄さん、気にすんな。子どもに好かれるのはええこっちゃ」
「でも、大人には嫌われる。みんなワタシを気持ち悪いと言う。ワタシは鏡を見てもちっとも気持ち悪くない。みんなの見方のほうが変なんだ」
「ホンマそうやで。見方によっちゃ、ジョージ・マイケルに似てまっせ」
「そうかい? でもまあ、百歩譲ってもしワタシが気持ち悪いとしても、わざと気持ち悪いわけじゃない。みんなだって、うっかり失敗することはあるはずだ。それなのに、わざとじゃないことを責めるのは、人としてまちがってると思う」
「そやそや。兄さんは、うっかり気持ち悪いだけや」
「ありがとう。ユエナちゃんは親切だね。ワタシの天使だ」
さぶイボの整列が止まらんかった。それがキモいんじゃ、ということを指摘しても、たぶんこの変態オヤジは治らん。一挙手一投足、片言隻語がキモい人間はおる。そういうやつは吐く息も臭い。アカも人の三倍出る。
わしは変態オヤジの背中を、嫌っちゅうほど叩いた。
「兄さんは生きとるだけで素晴らしい。わしならとっくに死んどる! 兄さん見たら、自殺考えとった人間も、死ぬのアホらしゅうなるわ。みんなの希望の星やで。これからも頑張ってや!」
「は、はい」
変態オヤジは立ち上がると、両手でわしの手を握りよった。信じられんほど手がネバネバしとる。わしは込みあげる嘔吐物と闘いながら、
「生理的に無理いうのは、兄さんのためにある言葉や。肝に銘じてな」
「うん。これからもヨロピク。ところできみたち、夕飯は?」
「おにぎりがあります」
イッチが答えた。すると変態は、
「食堂は自由に使ってよろしい。ただし、レンジもコンロも使用料は一回百円。すべて給料から引かれる。ワタシもきみたちと同じ研修生だから、そこはツケになってる」
食堂の中を見せながら、次に進んで、
「シャワーも使用料は一回百円。先輩たちが全員使い終わってから使うこと。ただし、誰か一人でも先輩が先に寝ていたら、その日は使用禁止。五分以内で上がれよ」
それじゃあたぶん使える夜はない。朝シャンにするかと考えとると、
「ここが洗濯室。客が帰ったら、タオルを洗濯して干す。私物の洗濯はオタマジャクシのうちは二週間に一回。シフトが休みの日にこっそりやれ。これも使用料は百円」
変態オヤジと同じ洗濯機を使えるわけがない。これはサンマルチノの家で洗わしてもらうことにする。
「一日の流れを整理しよう。ワタシたちオタマジャクシは、朝六時に起きて、先輩方のコーヒーとトーストの用意。先輩方の使った食器を洗ってから自分の食事。下に降りて廊下の雑巾がけとマッサージルームの床掃除。乾いたタオルの用意。営業時間になったら上に戻り、先輩方の部屋の掃除と洗濯。先輩に呼ばれたら下に行き、あいてる部屋でマッサージの練習。先輩方の昼食の準備。夕食の買い出し。なにを食べたいかは事前に訊いておくこと。あき時間があれば少しでも人体の勉強。教科書は事務室にある。先輩方の夕食の準備が終わったら、マッサージルームの清掃。洗濯。先輩方の食器洗い。それから自分の食事と風呂。先輩方の呼び出しがなければ就寝。これがだいたい午前二時」
熟睡できそうやと思う。たぶん夢も見ん。
「休みは月に二回もらえる。ただしその日も、一号館、二号館、三号館が人手不足ならまわされる。そうでなくても、たいていオーナーの実家の農家の手伝いとか、ペットの世話とか、釣りのお供などを言いつけられて一日が終わる」
オーナーの釣りのお供? そらチャンスや。達人と親しゅうなって、現実世界に帰るツボを教えてもらえるかもしれん。
「きみたちは若いから、礼儀作法から覚えなくてはならん。次に人体の知識。それからようやくマッサージの技術。カエルになってデビューできるまで、何か月かかるかわからん。真剣にやらないと、ツケが膨れあがって身動きとれなくなるよ。じゃあ、今日は遅いからもう寝なさい。洗面は食堂でな。ではユエナちゃんは自分の部屋で休んで。一ノ瀬くんはワタシと同じ部屋で生活する。来たまえ」
イッチの背中は暗かった。まだ覚悟が決まっとらんらしい。まあ、さっきまで呑気な高校一年生やったから、無理もないがの。
自分の部屋に入った。広さは六畳くらいで、マッサージルームと同じくらいやった。ただし壁はコンクリートむき出しで、家具はぽつんとパイプ式のベッドが一つ。そこに花柄の布団が敷いてあって、休憩室で脱いだ紺ブレがきれいに畳まれて置いてあった。サンマルチノがやってくれたんやろう。
床は学校の廊下みたいなタイル張りで、足の裏が冷べたい。カーペットが欲しいけど、そこまでサンマルチノに頼んだらずうずうしいかなと思う。
布団に寝転がった。
ここで暮らすんやったら、当たり前の女子として、タンスも欲しいし鏡も欲しいしテレビもステレオも欲しい。ドライヤーも歯ブラシもハンカチもティッシュも欲しい。コップも時計も欲しい。下着の替えも欲しい。
ま、しゃーないわ。稼ぐしかないわい、この身一つで。
今日一日で、そんなふうに思えるようになった。少しだけ大人になったのかもしれん。
そういえば、変態オヤジに手え握られたとき、こらえて殴らんかっただけでも、見ちがえるような進歩や。
一日一日進歩していけばできる。先のことは気にせんと寝るこっちゃ。
そう思うて目を閉じたら、幾野セリイの顔が浮かんできた。あのおなご、ちゃんと屋根の下で寝とるやろか。ちーと心配やで。
頭まで布団をかぶる。サンマルチノのお古やが、わしの布団や。ここはわしの部屋。誰にもジャマされへん。
そうや。今夜からは、本当の父親でもなんでもない、母親の男が勝手に入ってきて、汗臭い手で触られたり、顔面殴られたりせんと眠れる。極楽やで、極楽。
せやけど――
ここは夢や。夢の中の人間ちゅーのは、夢見んのかな? ほんで目覚めたときは、どないなっとるんやろ。夢のままか、それとも現実に戻るんか。このまんまがええか戻るんがええか……えーい、わし、正味わからん!
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