テセウスの船、ひときれのパン(凶悪)

 こつん、とベンチに衝撃。顔をあげれば、クラスメイトだ。制服姿。学校帰りだろうか。もうそんな時間が。

 そういえば、この人の名前はなんだったか。

「なんの用?」

 足下には鳩。私がばら撒いたパン屑に群がっている。

「なんの用じゃないよ、ったく。今週のプリント当番あたしなんだけど」

 中身の無さそうな潰れた鞄を片手に、半目で私を睨み付ける。

「ありがと」

「今週だけでも学校来てくんない?」

 んー、と声が漏れる。ばらりとパンを撒く。

「面倒」

「こっちも面倒なんだよ」

 がつん、と再び衝撃。鳩が羽ばたき、逃げていく。さよなら平和。

「あ、でも白くはないか」

「は?」

「いやいや、鳩の話?」

「意味わかんねぇよ」

「まあまあ、座りなよ。パン奢るよ」

 どかりと座る彼女。

「あたしは鳩かよ」

 少なくとも、鳩よりたくさん食べそうだ。

「美味しいよ」

「いや、味の問題じゃなくて……わかんねぇなあんた」

 そう? と首を傾げる。自分ではわかりやすい人だと思っているのだけれど。

「不登校児っつったらほら、もっとコミュ障で挙動不審なやつを想像してたんだけどさ」

「あぁ、なるほどなるほど」

 肯く。

「でも、そうでもないみたいだし……」

「公園で鳩に餌やりするのは挙動不審には入らない?」

 じっと彼女はこちらの顔を見つめる。明るい色に染めた頭髪はパーマがかけられており、薄く見える化粧に出るところは出ている体付き。男受けはかなり良さそうだ。学校で観察したら別の印象を受けるだろうか。

「まぁ、おかしいっちゃおかしいか。いや、そもそもやっちゃだめだろ」

「そうだよ」

「そうだよって……」

 鳩の餌やりは禁止されている。当然だ。糞害もあるし、人間の食べ物の味を覚えた野生動物以上に手に負えないものはなかなかない。

「禁止されている行為を行う場合、私みたいに誰かに迷惑をかけるんだよ」

「……そうだよ。だから、今週だけでいいから学校来いよ」

 どれが本音なのやら。

 それとも全部なのか。

 だとしたらやっぱり、

「やだなぁ。行きたくない」

「あぁ?」

「高校の卒業資格なんて必要になったら取ればいいし。秋から留学するから、日本の制度に縛られる必要も無いし。あなたにも興味はないし、糞で迷惑する人のことなんか関係ない」

 だから私は私の意志だけで行動する。

 もういない鳩に、はらりと餌を撒く。

「それ止めろ」

「ねぇ、知ってる? 鳩って平和の象徴なんだよ」

「……なんだっけ、白いやつだっけ。それがなんだよ」

 やっぱりいい人なんだけど、いい人でしかないんだな。

「あなたは私の平和を踏みにじった。だから、私もあなたの平穏に少しだけ波を立てる」

「……いや、あんたが餌やってたやつ、そこら辺にいる鳩だろ……平和の象徴じゃないって」

 駄目だな。全然駄目だ。

「そもそも鳩がどうして平和の象徴なのか知ってる?」

「……知らない。なんで?」

「聖書にオリーブの枝を咥えた鳩が書いてあったの」

「それが理由?」

「勿論違うよ。それは、キリスト教圏だけの話」

 パンをかじる。美味しい。今朝の出来たてだ。もう冷めてしまったけど。

「鳩が世界的に平和を現すシンボルになったのは、一九四九年が定説。パリ国際平和擁護会議で、パブロ・ピカソがポスターを手掛けてから」

「んじゃなに、その前は、キリスト教の間だけで平和の象徴だったってこと?」

 なんだ、飲み込みは早いんだ。

「だから、私が今ここでごく普通の日本鳩を平和の象徴として定義するのに、なんの問題もないでしょ」

 顔をしかめる彼女。

「あー、待って待って。だって、それ、誰にも共有されてないっしょ。だから、それはあんたの中だけの話にしかならないって」

 くすくすと笑みが漏れる。

「何笑ってんだよ」

「違う。今、あなたと私で共有したでしょ。だから、今この瞬間から、そこら辺にいる鳩は、平和の象徴」

 数瞬の間、戸惑うような貌。そして、

「馬鹿らしい」

 立ち上がる。

「プリント、家に置いといたから。あんたが駅の近くに住んでて良かった」

「人間って怖いね。あなたはもう、ベンチに座る前のあなたじゃないもの」

 舌打ちをした彼女は、

「前言撤回だ。おまえやっぱり学校来るな」

「うん。行かない。面倒だもの。それと、」

 パンを差し出す。

「あげる」

 ひとかけらのパンを、彼女ははたき落とした。


 そこにまた、鳩が群がる。

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