亜神抄・作楽(憧憬)
雨。
音。
ひらり。
はらり。
芽吹く音。命が奏でる死。
肌に触れる水の感触。髪の濡れる季節の重さ。
光りが無いぶん、私の耳と肌は嫌に鋭敏で、あのキチン質が廊下の床板を叩くけちけちという音をすら拾う。
「さくらさまー!」
甲高い羽音。小煩い従者。
「翠鳴、大声を出さずとも聞こえます」
「さくらさま、おからだがぬれてしまいます。おかぜをめしてはたいへんです、はやくこちらに」
ぐいと私を掴んだ翠鳴の手は硬く、生暖かい金属のよう。とげどげとした指先が刺さり、傷になりやしないかと懸念を覚えるのも束の間、まぁ、もうどうでもいいのだと投げやりになって、そのまま運ばれる。
ばさりと大きな布で体を拭われる。なすがまま、なされるがままに佇む。
役目を終えた花冠など、そんなものだ。
「ほら、きれいになりましたよ」
「翠鳴、」
「はい!」
「……綺麗、などと言われても、私に見えるでもなし、誰かが眺めるでもなし、何の意味がありますか」
さりさりと
「その、すいめいがみます!」
「そう」
虫に美醜が解るものなのだろうか。判らない。それに、他の混虫とは話したこともない。役目のために生まれて、仕事を終えたら死ぬ。そういう生き物だ。神凪の巫女とは天地の差ほどもあろう立場の違いを、この羽虫は理解していない。
否、接木もされず剥木にもならない私と、この喧しい蝉の化物とで、大した違いは無かろう。ならば、なればこそ、やはり違うのだ。立場という大きな隔たりが、私と翠鳴には存在する。
それしかない。
「ねぇ、翠鳴。花はまだある?」
「はい! おぐしのあいまにいちりんのこってます!」
つまり私はまだ花冠なのか。
なら、素直に従っておこう。
「やっぱり、さくらさまはおきれいですね」
「そう」
「そうです! このまえのかんなぎのまいも、とてもきれいでした!」
「そう」
「はい! ぶたいのうえにはなびらがまって、とてもごうかでした! すいめいは、さくらさまにつかえることができてしあわせです!」
「そう」
「そうださくらさま、ほんじつはいかがいたしましょう。おひるまでじかんもありますし、おさんぽはできなくともなにかあそぶものをおもちしましょうか」
「いえ」
溜息混じりに応じる。
「独りにして。昼餉の時間になったら呼びにきて」
さりさりと、下僕が迷う音。
「そのう、さくらさま。またあめのなかにはいってしまっては、おかぜをめしてしまいます」
「もうしませんから」
「わかりました! では、おひるのしたくができましたらおよびいたしますね!」
けちけちと足音が遠ざかる。羽音で何かを歌いながら……まるで呻き声のようなそれは、聞くもおぞましい音の外れっぷりを雨空に溶かしていた。
なにが楽しいのだろう。なにか楽しいのだろう。
「……」
再び、溜息。
気がつけば、眠っていた。いつの間に。
暖かい感触。どうやら、横たわる私に毛布が掛けられているようだ。いつの間に?
「ん……」
体を動かそうとしても、上手く動かない。
寿命か。
三ヶ月ももったのだ。接木のされない花冠にしては長命だったろう。
力を抜く。雨音の中に、静かに消え去ってしまいたい。霧のように、霞のように。そうできるなら、どれだけ幸せだろうか。
「さくらさま、すみません、おこしてしまいましたか」
当然のように居る、虫。
「翠鳴。起き上がれないの」
「いま、おこしますね。あ、すこしおそくなりましたがおひるごはんにしませんと」
「……いらない」
もうすぐ死ぬのだから。それより、
「それより、翠鳴」
「はい」
「花は?」
「すいめいがここにもどったときには、ちっていました……でも、きれいだからとってあるんですよ! いま、うつわにいけています! とってもいいにおいだから、さくらさまも、」
「捨てなさい」
「でも、」
「捨てなさい」
強く言い含める。私の花を生けてある? 気持ち悪い。そんな生首みたいなものを喜ぶ人間がどこにいる。私も、こいつも、厳密に分類すれば人間ではないけれど。
……人間ではないからか。
「それと、花が散ったら私はもう花冠ではありません。あなたは用済みです、翠鳴。根絡に戻るのでしょう」
さりさり。
「すいめいは、ねがらみさまのところへはもどれません」
「どうして。役目を終えた
「すいめいは、すいめいになるとき、ほかのせみとはちがうからだをもらいました。さくらさまたちとにたたべものでいきていけるよう、ちゃんとおなかのなかにないぞうがあって、ふつうには
だから、と蝉の、蝉ですらない何かよくわからないものは
「だから、ねがらみさまのところでべつのむしになることは、もうできないんです」
「そう。あなた、馬鹿だったのね」
知っていたけれど。
「すいめいが、さくらさまにおつかえしたいとおねがいしたんです」
たかが三ヶ月。私にとっては一生でも、混虫にとっては一瞬だろう。中枢を含めた神経塊が同時に、しかも一瞬にして吹き飛ばなければ死なない。それが混虫の強みだ。体の交換、換装さえできれば半永久的に活動できる生物。なのにこいつは、たった三ヶ月のためにそれを手放したのだ。
「……その中身のない頭は? 体だけ全部入れ替えればいいんじゃないの」
「そういうものじゃないんだそうです……その、ふつうのからだにてきおう? するために、あたまにおっきなしんけいかいをつくって、そこでぜんぶやるんだって」
初めて聞いた。どうでもよかったから。それに、今もどうでもいい。
「そんなことまでして、でも形は変わらないから食べ物はあの液体だけでしょう。言葉だって上手く話せない。そもそも容量それ自体の問題で知能も低い。にもかかわらず永遠の命を手放したら、貴方たちになにが残るっていうの」
価値なんて、どこにもない。
花が散ったら、捨てられる。
「すいめいは、さくらさまがさかれるすこしまえに、おめにかかりました」
急に何を言い出すのか。
「そのときのすいめいはすいめいじゃなくて、すいめいのまえのすいめいでした。でもそのすいめいは、さくらさまのことをとてもきれいだとおもったんです」
呼吸の必要がない言葉は聞き取り辛い。その上、語彙も無ければ表現も不適切。
溺れる魚のように、死にかけの虫のように、それは言葉をたどたどしく放つ。
「ねがらみさまは、だれかがさくらさまにつかえるひつようがあるから、だれかがしぬひつようがあるとおっしゃいました。だから、すいめいのまえのすいめいは、とてもきれいなひとのそばでいきていきたいから、じぶんからおせわをしたいっていったんです」
「そう」
「はい!」
ねぇ、と寝転んだまま聞く。最早起き上がろうとも思わない。
「どうして翠鳴なの?」
「みどりいろのはねでなくから、すいめいだってねがらみさまはおっしゃいました」
口から吐息のような笑みが漏れ出る。
「さくらさま?」
「なんでもない」
「そうですか……では、おひるをおもちします」
「いらない」
「でも、たべないと」
食い下がる虫。
「ねぇ、翠鳴」
「はい!」
「私、どうして生きてるんだと思う?」
「さくらさまは、かんなぎのおしごとをきちんとおえて、あとはたのしくすごすためにいきているんです!」
力強い、愚かな応え。
「だから、さくらさま、おひるごはんを……」
「えぇ、食べましょう。でも、お願いがあるの翠鳴」
虫の手を握り体を起こす。ぐったりと体重を掛ける。力が入らない。力を入れない。私はこれなしには生きていけない。もう誰からも顧みられないのだから。
「はい! なんなりと!」
「貴方の、翅が食べたい」
そういって、背中から生えるそれを、ぶつりとちぎった。
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