永遠のあなた(憧憬)
「ねぇ、知ってる?」
彼女の決まり文句。そして続く、空想への飛翔。彼女の言葉という翼はとても大きく、力強く羽ばたいて、私を常に導いてくれた。
「この先にはね……」
行き止まりの路地を指差して、その先に続く未知なる世界への扉を叩く。
例えば、巨大な山嶺を包む黄金の野。
例えば、底無し沼に浮かぶ木の足場。
例えば、密林の奥に潜む不思議な像。
例えば──
「おかえんなさい、あき」
「ただいまー、かあさん」
懐かしい我が家の戸を開くと、待ち構えていたかのように母がいた。
「あ、なに、どっか出掛けるの?」
「今夜は結婚報告でしょ? 旦那さんにご馳走作ってあげなきゃ」
年甲斐もなくうきうきとはしゃぐ母。かあさんは昔から変わらない。
もちろん、皺が増えたとか、白髪が頭全体を覆うようになったとか、そんな違いはあるけれど。
「あきはゆっくりしてなさいな。疲れてるでしょ」
「いいよ、手伝う。荷物持たせらんないし」
「それがねぇ、最近は配達してくれるのよ」
なるほど。田舎……というほど田舎ではないけれど、都市部辺縁の住宅街は高齢化が著しい。商機の見えるサービスだ。
「じゃ、遠慮なくごろごろしてるねー」
三和土を上がって居間に入ればそこには猫が待ち受けていた。
「んなー」
「ただいま、まるー」
まる。私が高校生だった頃、父が唐突に拾ってきた元野良猫。顔が丸いのでまる。父のネーミングはいつもこんな感じで、色々と雑なのだ。私だって、秋生まれだから亜紀である。最初の案では秋子だったらしい。
「まる、老けたねぇ」
「んなー」
よく鳴く癖は変わっていないが、動きは鈍い。昔のように駆け寄ってくることもなく、その場で腹を見せている。
「よしよし」
わしわしと腹を撫でて、
「ちょっと父さんに挨拶してくるね」
線香が灯り、独特の薫りが充満する。手を合わせて、
「ただいま、父さん」
遺影に声を掛ける。
父の仏頂面は何も変わらないけれど、写真は少しだけ古びて色褪せていた。
「かあさんが騒いでたからもう知ってると思うけど、今日は大事な報告があるから」
そういって、まだ膨らんでいない下腹を撫でる。
「ちょっとあき、身重なんだからじっとしてなさいな」
帰ってきた母は開口一番、これだ。
「洗い物溜まってちゃ料理もできないじゃない」
「そういうことじゃあないの。座ってなさいな」
「だってさ、まるー。暇は性に合わないっての」
「んなー」
「聞いてよまる。この子ったら、全然お祖母ちゃんらしいことさせてくれないのよ」
「んなー」
猫を介して喋るのは、どこの家でも同じなんだろうか。律儀に毎回鳴き返してくれる猫はまるくらいだろうけど。
団欒の形は、父が欠ける前とほとんど変わらない。無口な人だったから。でも、まるを撫で回す手はもう無い。だからだろう。床にころころと転がって、絨毯に背中を擦り付けている。
「んー。じゃあ、ちょっと散歩行ってくるね」
「はーい、旦那さん来るの何時頃?」
「七時くらいって言ってたけど、どうだか」
そう告げて、履き慣れた靴を踏みしめ、触り慣れた扉を開く。
ぎぃ、と聞き慣れない音がした。
梅雨の風は夏に近付き、湿り気を帯びたままに青空を予感させる。ジューンブライドだなんて子供の頃は想像もしなかった。
そうだ。あの頃、二人で歩いた公園にでも行ってみようか。いつまでたっても暇潰しが苦手な私は、初めて一人であそこに向かう。
二人の、思い出の場所。
こじんまりとした公園の遊具は撤去されていた。
大空を羽ばたくためのぶらんこは、吊り下がっていた鉄の柱だけが寂しく錆び付いている。
手を離したら海原へと落ちてしまうはずの鉄棒は、影も形もない。
世界で一番高い標高の滑り台は、もう支柱の痕跡がぽっかりと空いているだけだ。
辺りを見渡す。虹で彩られた夢の国は、殺風景な砂地の空間に変わり果てていた。
変わってしまったのは、どちらだろう。
公園か、それとも私か。
すとん、とベンチに腰を下ろす。
隣には誰もいない。
あんなに一緒だったのに。今は独り。
「どうして、いっちゃったの?」
ぽつり、と声が漏れてしまった。
呆然と曇り空を見上げ、ため息。
変わらないのはあなただけ。私はもう、あなたの知る私じゃない。それは、仕方のないことなのだけれど。
「あなたとなら、どこでも、どこまでも行けたのにね」
変わらないあなたと、独りにはなれない自分とでは、二度とは交わらないだろう。
だから、
「さよなら」
誰もいないベンチを背にして、私は立ち上がった。
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