その切り取られた舌(憧憬)
水底に沈む。
見上げれば、光り。
こぽり、こぽりと泡が口や鼻から漏れ出る。それは、光りに触れて、溶けて、消える。
どれだけの間、そうしていただろうか。
もう、ここに意味なんて何もないのに。
ざばりと水面に飛び上がって、まず驚いたのは私よりも先にゴールへと到達している選手がいた、という事実だ。
最高のコンディションで挑んだ全国大会で、自己ベストを更新しておいて、そして負ける。自身の人生の中で一度たりとも経験したことのない屈辱に、私は思わず顔を歪める。
(どうして?)
前評判は聞いていた。
人魚姫と称される、化物。
負けた経験のない、怪物。
けれど、それは私も同様だったはずだ。特に後半の追い上げでプレッシャーをかけ、焦った相手を一気に抜き去る戦術とスタミナ配分の妙は大会前から超高校級と言われていた。まだ中学生になったばかりだというのに、だ。
将来を有望視されている自覚も、誰にも負けない訓練も、それらを受け止めるだけの才能も、全て兼ね備えている。いた。
それが、あっさりと覆された瞬間。
コーチの声は聞こえてはいたけれど、どこか遠く、膜の向こうから聞こえてくるようだった。水の中で、地上の声を聞いているような、そんな感覚。
コーチに手を差し伸べられて、ようやく私はまだプールの中にいることを思い出す。
「あ、」
「よくやった。自己ベスト更新だ。この調子で頑張っていこうな」
答える言葉を私は持たない。だって、勝っていない。勝てて当然の試合に、結果を残していない。
なぜなら、人魚姫は短距離の選手だ。
陸の上では生きてはいけないのではないか、とすら噂される化物は、予想を遥かに超えていた。だって、そいつは。
「やっぱり、長距離わかんないな。もうちょっと飛ばしてもいいのか」
茫然とする私の真横で、レーンロープ一本挟んだ向こう側で、信じられない言葉を発していた。
言葉を失ってそれを見つめてしまっていた私に、そいつは、事もあろうに笑顔でこう言ったのだ。
「ありがとう、色々勉強になりました」
私は、初めて笑顔以外の表情で表彰台に立つ羽目になった。
それからそれとはあらゆる距離、泳法で戦った。その六年間の屈辱は終生忘れられない。
一度も、一度たりとて、勝てない。
負ける度にコーチに告げられる。
「気にするな」
気にするな?
選手としての格が違う、という意味だろうか。負けて当然の相手だとでもいうのか。
私の焦りとは裏腹に、私自身は順長にタイムを縮めていった。高校二年の頃には、次のオリンピック代表枠の一つは私で決まりだろう、とコーチは言う。
それが、どうしたというのだ。
それに、何の価値があるのだ。
だって、私は一度も勝っていない。
「よくやった。選考委員も文句なしに君を代表に選ぶだろう」
控室でストレッチをしている最中、突如コーチが切り出す。
「……はい」
「嬉しくなさそうだな」
当たり前だ。去年のあれのタイムにすら追いついていないのに、どうしてこれが喜べよう。
「人魚姫さんの次に、でしょ」
つっけんどんな言葉に自己嫌悪するが、もう遅い。けれどコーチは、
「あぁ、彼女。あっちは選考から外れたよ」
「嘘」
「本当」
「どうしてですか?」
私より速いのに。
私より強いのに。
納得がいかない。
「さぁ……噂だと、妊娠したんだって」
「は?」
妊娠? 子供? 男?
そんなもののために、積み上げてきた功績を投げ捨てるの?
「ちょ、ちょっと待ってください! じゃあなんですか? 私は繰り上げですか? お情けみたいなものじゃないですか! なんですかそれ!」
「お、落ち着いて。今言われても困るよ」
困るのは私の方だ。
常に背中しか見せてこなかった化物が、突然『普通の女』になったから辞めます?
ふざけないで。
それじゃあ、私がバカみたいじゃないか。
いや、バカにされたわけじゃない。
ただ、一方的に敵視していただけ。
それを思い知らされた、それだけ。
あれは、私なんてそもそも歯牙にもかけていなかった。ただ、それだけ。
深呼吸。
二酸化炭素以外にも、色々なものが抜け落ちていく感覚。
「……すいません、コーチ」
「いや、ほら、君だって悔しいだろうけど、ものは考えようだよ。これからはのびのびと泳げばいんだって思おう」
一秒を争う世界で、のびのびと。
バカげている。
涙で滲んだ世界に、蛍光灯が眩しかった。
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