関ヶ原前哨戦 Ⅲ

「かかれーっ!」

「撃て!」


 山麓から雲霞のごとき勢いで迫ってくる滝川・羽柴軍に対して信雄・徳川連合軍は雨あられのように銃弾を浴びせかける。優位な地形に陣取り、即席とはいえ築かれた柵により、敵軍は近づくことさえ出来ずにばたばたと倒れていく。


 信雄軍は三家老を失ったことで混乱していたが、家康はすぐに榊原康政を救援に派遣した。信雄軍に迫ったのは滝川軍の先鋒、益重隊であった。

 本能寺の変では上野を失ったものの、この戦いで勝てば天下も夢ではない。そんな状況に滝川軍の士気は高かった。


「一番槍、もらった!」

 中にはそう叫んで柵を乗り越えてくる敵兵もいた。

「慌てるな! 囲んで討ち取れ! 鉄砲隊は引き続き柵の外の敵軍を撃て!」

 が、そんな敵軍に対しても康政は自ら前線に出て采配を振るい、時には柵を越えた敵兵を自ら槍をとって突き殺した。戦慣れした康政の援護により、動揺していた信雄軍も次第に落ち着きを取り戻していく。


「榊原殿、遅くなって申し訳ござらぬ」

 そこへ新たに先鋒を命じられた滝川雄利が現れて指揮をとり始める。雄利も歴戦の将であり、信雄軍の指揮系統は徐々に回復していった。

 そうなれば地の利に劣る滝川軍に勝ち目はなく、徐々に柵から遠ざけられていくのだった。


 一番混乱していた信雄軍がどうにか立て直したことで戦場では全体的に滝川・羽柴軍の無理が明らかになってきたようであった。

 羽柴軍も領地奪還に燃える中川秀政や高山右近らを先鋒に立てて徳川軍に迫ったが、徳川軍も井伊直政・本多忠勝らの精鋭を先鋒に立てて迎え撃つ。

 激戦が繰り広げられたがやはり地形の優位が物を言い、いずれの戦線でも死傷者がじりじりと増えていく。やがて攻め手も無理を悟ったのか、徐々に攻勢を緩めていく。




 が、そんな中で一か所だけ猛攻が続いているところがあった。徳川軍の最左翼であり、石川数正が防衛している陣地の周辺である。その辺りを攻めていたのは宇喜多秀家だったが、彼だけは容易に陣を退かずに熾烈な攻撃を繰り返した。数正もそれに対抗するために本陣を前に出して必死の指揮を行う。


 そんな乱戦に紛れて一人の影の薄い男がふらりと石川軍の中に侵入する。

「何者だ!」

「石川殿に渡せ」

 一人の兵士が誰何すると男は一枚の書状を置いてその場から姿を消す。

 兵士は不気味に思いつつも書状を拾うと本陣の数正の元に届ける。

「殿、敵方と思われる男がこのようなものを置いていきました」

「大方、我らを惑わせるための策略だろう」

 数正は書状を受け取ると、周囲に見せつけるようにびりびりと破り捨てて見せる。それを見て周囲の者たちはさすがは殿、と安堵する。


 が、一人数正の内心は穏やかでなかった。

 元々石川数正は「西三河の旗頭」と呼ばれ、「東三河の旗頭」と呼ばれた酒井忠次と並ぶ徳川家の重臣であった。

 しかし徳川家が織田家と同盟を結んで今川家との戦いを始めるにつれて、先鋒を務める酒井忠次の活躍が目立つようになっていく。そんな中、数正ら西三河衆は家康の嫡子信康を駿河から取り返したこともあり、近い関係になっていた。


 そして武田家による徳川領の侵攻が苛烈になり、織田信長が畿内での戦いに忙殺されて徳川家が捨て石のような形となるにつれて彼らは織田家に対する反発を強めていった。

 信康は母の築山殿が今川家の出身で、妻の徳姫が織田家の出身という複雑な立場だったが、岡崎城にいたこともあって反織田派の中心としての期待を背負うことになってしまった。


 この時数正自身は武田と内通した訳ではなかったが、信康を当主に据えて武田に降伏するという選択肢が現実味を帯びてくるほどには一時期の徳川家は危機に晒されていた。

 しかし長篠の戦いの勝利などで徳川家が危機を脱すると、家康は信康の切腹という形で事件を処理した。この時数正自身は処分を受けた訳ではなかったが、天正壬午の乱の折に酒井忠次が軍勢を率いて活躍したのに対して数正は、外交などを任されることが増えた。


 はっきりと冷遇されていた訳ではないが、数正はどこか家中で居づらいものを感じていた。そんな中秀吉からは「もし味方するのであれば一国を与える」という誘いを受けていた。

 今の書状も恐らくその誘いだろう。おそらくこのまま徳川家に味方し続ければおそらくこの戦いには勝利し、家康が天下をとればそこそこの領地を与えられるだろう。


 しかし一方で酒井忠次だけでなく本多正信や大久保忠世、井伊直政のような元々自身より格下だと思っていた者たちが次々と自分を越えて出世していくのを見ているだけというのは我慢ならなかった。なぜ何か失策があった訳ではないのに彼らの下に甘んじなければならないのか。


「殿、あれは何でしょうか?」

 一人の家臣が前方を指さす。すると遠く羽柴軍の本陣に一筋の狼煙が上がっているのが見える。

 それを見て数正は心を決めた。秀吉は譜代の家臣を持たない以上、外様の自分でも働き次第では重用される可能性がある。


 数正はあらかじめ決めておいた通りに手を叩く。するとそこに一人の家臣が息せききって飛び込んできた。

「大変です! 我らの背後に小早川軍が回り込もうとしております!」

「何!? よし、我らは敵軍を迎え撃つために兵を退く!」

 この家臣はあらかじめ数正が用意していた仕込みである。


 数正の突然の命令に軍勢は戸惑った。しかし突如前方に上がった謎の狼煙、そしてなぜか石川軍にのみ執拗に攻撃してくる宇喜多軍を見て、兵士たちも敵軍に何か策があるのだと思っていたので結局数正の命令に従った。

 こうして戦場の形勢はにわかに動き始めたのである。

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