関ヶ原前哨戦 Ⅱ

「信雄様、急ぎ内密にお話したいことが」


 そう言って徳川家康が本陣に戻ってくる。いつも能面のように表情を表に出さない家康だったが、今回ばかりは少し深刻そうにしている。しかも内密に、とまで言われた。それを見て信雄もただ事ではないと感じる。


「分かった、下がっておれ」

 そう言って信雄は家臣たちを下げる。


「由々しきことになっております。先ほどこのようなものを手に入れたのですが……」

 本陣の中に二人きりになったのを見て家康は先ほど半蔵が持ってきた三通の書状を見せる。

 秀吉から信雄の三家老津川義冬・岡田重孝・浅井長時にあてた書状で、そこにはあたかも三人が内通を承諾したかのような内容が書かれており、「勝利の暁には所領を安堵するし、信雄の命も助ける」とあたかも交渉が成立したかのような文面であった。実際に三人と秀吉がやりとりをした事実はないのだが。


「何だと」

 書状を読んだ信雄の表情が変わる。

「羽柴殿が不利にもかかわらず兵を進めてきたのはこういう事情があるからではないかと」

「おのれ……」


 信雄は眉を吊り上げる。信雄にとって、自家の家臣に秀吉からの書状が届くという時点で腹立たしいのに、その上それを自分ではなく同盟相手の家康に先に見つかるという事実が屈辱的だった。敵軍が迫っているという緊迫した状況もあってその屈辱はたやすく怒りに転化する。


「すぐに三人を呼び出せ!」

 信雄は先ほど人払いした者たちを呼ぶと三人を呼び出す。

 本来織田家のごたごたを家康の前で処理するべきではないのだろうが、この件について知っているのが家康だけだったというのが災いした。信雄は家康に事情を聞きながらでなければ尋問も出来ない。情報を集めようにも羽柴軍が迫っている以上悠長にしている時間はない。

 こうして信雄は同盟相手の家康を隣に自分の家老の尋問を行うという状況に追い込まれたのである。


 そこに現れた三家老は困惑していた。三人に届く前に服部半蔵が羽柴方の書状が押さえられてしまったため、事情を何も知らない。


「殿、羽柴軍は間近に迫っております! こんな時に一体何ですか!」

 最初にやってきた義冬が叫ぶ。

 苛ついていた信雄は激昂した。

「元はと言えばおぬしが秀吉と内密に書状のやりとりをしていたせいではないか!」

 そう言って信雄は家康からもらった書状を叩きつける。

「先ほど我が忍びが入手したものだ」

 家康が重々しい口調で告げると、義冬の表情は蒼白になる。

 そこへ重孝と長時も現れて書状を読む。


「こ、これは……」

「羽柴殿の謀略でございます! 我らは羽柴殿とやりとりをしたことはございませぬ!」

「殿、我らを信じてください!」

 三人は口々に言い立てる。それだけではなく家康にも哀願した。

「徳川殿からも口添えお願いいたします」


 家康はしばしの間沈黙する。三人からは嘘をついているような気配は感じないが、三人のうちの一人か二人が裏切りの約束をしているという可能性もある。この事態に動揺してそれを隠すために三人に怒りをぶつけている信雄を見ると、戦いに勝った暁にはこの三人を徳川家に調略してもいいとすら思っていた。


 が、家康よりも先に口を開いたのは信雄だった。信雄にとってみればただでさえ家康よりも領地・器量ともに劣っているのにこの上目の前で醜態を晒しているという劣等感があった。

「信じられるか! おぬしらはわしが直々に取り調べる! 者共、こやつらを捕えよ!」


 すぐに信雄の周りにいた兵士たちが三人を囲む。

「先鋒は滝川雄利に任せる! こやつらは縛って閉じ込めておけ!」

「そんな……」

 三人は呆然としたものの、身一つで本陣に来たためにどうすることも出来ず、捕縛された。あっという間の出来事に周りの者は何が起こったのか飲み込むことも出来ず、目を白黒させている。


 そんな中、平静を保っていたのは家康だけだった。

「ではわしは自陣に戻ります」

「うむ、見苦しいところをお見せして済まなかった」

 信雄は家康に頭を下げる。

 それを見て家康は思う。信雄とともに秀吉と一益を倒せば、信雄を追い落とすのは思ったよりも簡単そうだ、と。


羽柴軍本陣

「何!? 三家老が捕縛されただと!?」

 報告を聞いた秀吉は驚愕した。この策を主導した傍らの官兵衛も声こそ上げなかったが動揺を隠せないようだった。

「戦が始まってしばらくした後に流言を流すつもりでしたが……徳川の忍びに感づかれたかのかもしれませぬ。しかし三家老が捕縛されたのであれば多少の戦力は削ぐことが出来たでしょう」

「官兵衛、元々信雄様の戦力など大したことはない。より徳川殿が信雄様に大きな顔をするだけだ」

「申し訳ありません」


「良い。それで本命の方はどうだ」

「はい、そちらは今のところぬかりなく進んでおります」

「そうか。三家老の件がいい目くらましになればいいのだが」


 秀吉は秀吉で北から迫る新発田軍の到着と長島城の陥落前に勝利を収めたいという焦りがあった。戦中に三家老が書状を受け取っていたという流言を流し信雄軍を壊滅させるというのは一つの作戦だったが、三人が捕縛された以上多少動きが悪くなることはあっても崩壊することはないだろう。もう一つの策がうまくいくといいのだが、と思いながらも秀吉は軍勢の指揮に戻る。

 やがて羽柴軍の先鋒が松尾山に辿りつき、戦いは始まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る