関ヶ原前哨戦 Ⅳ
「申し上げます! 左翼の石川隊が戦場を離脱しております!」
「何だと」
物見がもたらした報告に家康の表情が変わる。慎重な石川数正は秀吉方とのやりとりを悟られぬよう気を付けており、また不必要なやりとりを可能な限り減らしていたため家康もその情報を掴んではいなかった。
「理由は分かるか」
「いえ……石川様は背後から小早川軍が迫っていると言っていたらしいですが、そのような事実はありません」
数正が間違えたのかと考えた家康だったが、そのような間違いをする人物ではない。ということは、と家康も最悪の可能性に思い至る。
家康は感情を表情に出すことはあまりないが、好悪の感情は人並みにある。有名な話ではあるが、次男の於儀丸(秀康)の扱いは他の実子と比べるとかなりひどかった。
家康にしてみれば信康事件で処分せず、徳川家の外交を任せるなど重用したつもりのある数正だったが、本多正信や酒井忠次、井伊直政らと比べると見劣りしていたのかもしれない。
「分かった。鳥居元忠・平岩親吉の部隊を派遣して左翼の補強をさせよ。信雄様の軍勢が立て直し次第康政を呼び戻せ。また、大久保忠世を呼べ」
「はいっ」
それでも家康はすぐに対処の指示を出す。
家康の命令を聞いた使い番はすぐにそれぞれの部隊に走っていく。普段はどんな時でも表情を変えない家康を不気味に思う家臣もいたが、このような非常時でも平静さを保っている家康は頼もしく映った。
が、本陣から人が減ると家康はつい親指の爪を噛んでしまう。これだけはどのように気を付けてもやめられぬ癖だった。先ほど信雄の陣で三家老を捕縛させたばかりだというのに直後自分の家臣が裏切ったのでは面子が立たない。
数正の兵力はおよそ二千。離脱した程度で大きく戦況を動かす数ではないが、もし数正が兵を率いて徳川軍を襲えばどうなるか分かったものではない。
そこに顔色を変えた忠世が現れる。すでに数正離脱の報は徳川軍に大きな動揺をもたらしており、忠世もその報を知っていた。
「これより兵を率いて数正の真意をただしに向かえ」
「はっ!」
忠世はその一言で家康の意図を察した。数正がそのような行動をとった以上、最悪の事態に発展する可能性はある。だからわざわざ「兵を率いて」と言ったのだろう。
「状況によってはそれがしの判断で動いてもよろしいでしょうか」
「うむ」
家康はそれだけ答えた。それを聞いた忠世は急ぎ自陣に戻ると兵を整える。
幸い、徳川軍の先鋒を務める井伊直政や本多忠勝らは羽柴軍を押し返している。また、信雄軍の救援に向かった榊原康政も引き返してきて、徳川軍はすぐに崩壊するという状況ではなかった。
大久保忠世はすでに五十の半ばであり、石川数正とは年齢も近い。ともに徳川家が今川家に仕えていたころから家康に仕えていたが、忠世は二俣城を守るなど対武田の最前線で戦い、外交を主とする数正とは活躍分野が違った。忠世にとっても仕えたばかりのころは遥かに偉い立場に見えた数正がいつの間にか自分たちと同じような一家臣のようになっていることに思うところがなくはなかった。
ふと忠世は思う。数正と親しい家臣ではなく忠世を派遣したのは、家康は数正の説得をほぼ諦めており、敵対した際に戦える者を選んだのではないかと。先鋒の井伊直政や伊勢にいる酒井忠次を除けば確かに忠世が家格や武勇では一番上かもしれない。そう考えた忠世は唇を噛んだ。
数正の軍勢が退却した徳川軍左翼には好機とばかりに宇喜多軍が殺到している。救援に赴いた鳥居・平岩隊も混乱する味方の軍勢に遮られ、なかなか戦線を立て直せていなかった。ここに数正が敵方として参戦すれば戦線は崩壊しかねない。
そんな戦場を横目に見ながら忠世は石川隊を追って桃配山後方に向かう。そこには軍勢を整えている石川隊の姿があった。
「石川殿に話があるのでこちらに出向くよう伝えよ」
それでも忠世は一応使者を送った。それと同時に物見も放ち、石川隊が動かないかを見張る。攻撃するのであれば石川隊が部隊を整えるまでにした方がいいという思いと、四十年以上ともに徳川家に仕えた仲間と戦いたくないという気持ちが忠世の中を駆け巡る。
石川隊に向かった使者はしばらくして忠世の元に戻ってくる。
「石川様は殿が本陣に出向いて欲しいとおっしゃっております」
使者の言葉に忠世は天を仰いだ。忠世が数正の本陣に出向けば、無事に帰ってくることはまず不可能だろう。もちろん数正を説得できる可能性もあるが、その無謀な賭けに打って出るには忠世の身分は高くなりすぎていたし、養うべき家臣たちも多くいる。
「どうしても我が陣に出向かぬのであれば攻撃すると伝えよ!」
それでも忠世はもう一度使者を送る。
が、使者は返ってこず、十数分後に石川隊の前に鉄砲隊が並ぶと大久保隊に銃口を向ける。忠世とて数正が本陣に出向けばただで帰すつもりはなかったので、数正が誘いに乗らなかったことには致し方ないという思いもあった。
「残念ながら石川殿は明確に翻意がある! この上はもはや味方ではない、これより石川隊に攻撃をかける!」
「おおおおおおおお!」
こうして戦場の後方で徳川家の重臣同士による戦いが始まったのである。
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