信濃退去

 八月から九月にかけて、俺は引き続き治水事業を見守りつつ、隙を見て領内の見回りなどを行っていた。治水工事は始めてみると、様々な問題にぶつかった。曽根昌世が川を掘削すべく引いた図面通りに工事を進めようとして固い地盤にぶつかって足止めをくい、図面を修正したこともあった。また、常に人をどのくらい集めるかは読み切れず、俺は不足が出るたびに近隣から人や物資を送る羽目になった。


 人と金に糸目をつけずに工事を進めさせているだけあって工事は順調に進み、雪が降る前に阿賀野川から日本海へ流す分流と、周辺の堤防は完成しそうであった。

 とはいえ完成してみないと水が思ったように流れるかは分からないので、そこからがある意味本当の始まりなのだろうが。


 そんな中何度か真田家から和睦を求める使者が訪れた。一度は長尾家を経由してきたこともある。俺にとって、上野の真田家は味方(長尾家)の味方なのだが、信濃の真田は味方(徳川家)の敵という込み入った状況になっている。しかしそれらの要請を俺は黙殺していた。真田と徳川であればどちらに味方した方が利益が大きいかは一目瞭然であるからだ。


 九月に入り、稲刈りの時期もそろそろというころである。俺が治水工事に携わる農民たちを順番に村に帰す手配を整えなければ、と考えていると三度本多正信が新発田に現れた。

 真田攻めについては本庄秀綱から定期的に報告が入っているが、攻めあぐねているものの勝利は時間の問題であるとも聞いている。一体何の用だろうかと思いつつ俺は招きいれた。


「新発田殿、このたびは少々面倒なことになりました」

「何だ?」

「実は真田は柴田勝家様に直接織田家への臣従を申し出たのです。そして勝家様はそれをお認めになり、我らに停戦を命じました」

「何だと!?」


 そこへ門番から勝家よりの書状が届いたという報告が来る。信濃にいる家康の方がたまたま早く書状を受け取っただけだったらしい。


 しかし勝家の立場に立って考えてみると気持ちは分からなくもない。勝家とて人がいいだけの好々爺ではないのだから徳川家康を無条件で信用している訳ではないのだろう。

 特に政権の中央に入れなかった信雄や信孝がいつ家康と結んで乱を起こすのか気が気でないのかもしれない。その時に備えて徳川の背後にいる真田を残しておきたいという気持ちは分かる。


「新発田殿は勝家様の婿であり昵懇とのこと。何とかとりなしていただけないでしょうか。そうでなければ少々面倒なことになります」

 正信は明言はしなかったが、不穏なことを口にする。

 勝家が和睦の件を取り下げなければ家康はそれを無視して真田を滅ぼすか、それに応じるしかなくなる。そして応じてしまった場合、家康の矛先が上方に向きかねない。


 もし俺が今の家康の立場で野心があれば信雄とともに美濃と伊勢に兵を出す。伊勢の滝川一益は播磨に赴いているため不在だし、美濃は秀吉について信孝に抵抗した者たちを味方につければたやすく制圧することが出来るだろう。

 俺としては勝家と家康の対決は出来れば起こって欲しくない。真田攻めに時間をかけている間に勝家が足元を固め、家康が諦めるというのが理想的な状況であった。


「分かった。俺の方からも相談してみよう」

「是非お頼みいたします。真田家の従属の話が消滅すれば、真田領の分配でご恩をお返しいたします」


 現状俺は砥石城にしか兵を出さない代わりに、勝利しても砥石城以外を受け取ることはないだろう。もし俺が勝家にこの話を取り下げさせれば他にも真田領をもらえるということだろう。

 さすがに京にいる勝家に会いに行くことは出来ないので、俺は真田のこれまでの振る舞いを書き連ね、最後に勝家と家康にもっと結びつきを強めて欲しい旨の書状を書いた。また、柴田家の誰かと徳川家の誰かで婚姻してはどうかとも提案した。


 半月ほど後、勝家から徳川家と俺宛てに真田領を存分にしてよい旨の書状が届いた。

 ちなみに、その後何度かのやりとりを経て当時十一歳のお江(お市の方の連れ子として現在は勝家の養子扱いになっている)と当時五歳の徳川秀忠の婚約が決まっている。全く経緯は異なるのに変なところで歴史の流れは収束するのだなと俺はこっそり感心した。


 ちなみにこの世界では徳川家嫡子の信康はすでに切腹していたが、次男秀康は秀吉への人質に出されることもなく健在であった。そのため、家康は母親の身分などを考えてすでに秀忠を後継者に考えていたのだろう。


 九月末、上野厩橋城主の北条高広が城を明け渡して北条氏直に降伏した。高広は即座に北条家の先鋒として上野の真田領に攻め込む構えを見せており、これにより昌幸は慌てた。上田で徳川を防いでいる間に勝家に手を回して和睦を成立させ、上野に戻るという計画だったのだろう。

 おそらく信濃ではまだ戦いを続行する余力はある。しかし信濃で戦いを続けても勝てる可能性は低い。徳川家も俺も他に敵がいないため、真田攻めに集中できるからだ。

 一方の北条家は佐竹・宇都宮他関東に敵を抱えておりそれらと連携すれば勝ちの目はある。


 そう考えたのだろう、昌幸は十月に入るとすぐに降伏を申し出た。条件は人質を交換して真田勢の上野への退去の安全を保障する代わりに、信濃の城を全て開城することである。

 家康はすぐにこれを了承、昌幸は信濃の地を惜しむ暇もなく上野に向かい、岩櫃城に入って北条家と戦った。


 家康は真田領のうち、上田城・砥石城周辺のいわゆる真田本領を俺に割譲し、佐久郡などを徳川領とする旨を伝えてきたため、俺もそれを受け入れた。


 こうして家康の甲斐・信濃支配において明確な敵はひとまずいなくなったのである。

 一方の北条氏直は岩櫃城の昌幸を攻めたが失敗し、長尾家に攻められていた惣社城は奪還したものの、それ以上の成果を上げることは出来ずに撤退した。

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