諏訪炎上

二月二十七日 織田信忠本陣

「ここまでは思いもよらない快進撃が続いていますな。まさか武田一門衆まで城を捨てて逃げ出すとは」

 信忠の与力となっている武将、河尻秀隆が言う。しかし信忠の表情は信濃に入ったときと同じ緊張に満ちたものだった。

「しかし油断は禁物だ。南信濃は武田にとって辺境であったが、諏訪は勝頼にとって縁の地。気を引き締めよ」


 武田勝頼の母はかつて武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘である。現在織田軍は信濃を北上しているが、諏訪に入るにはその入口にそびえたつ山城である高遠城を落とさなくてはならない。さらに、諏訪には勝頼率いる本隊が布陣しており、攻城中に思わぬ反撃を受ける可能性もある。長らく織田家を苦しめた相手に信忠は警戒を崩していなかった。


 そこへ周辺の情勢を探らせていた滝川一益が戻ってくる。

「信忠様、高遠城は逃亡者こそ出ているものの、今のところこちらに対し粛々と防備を整えているようでございます」

「一応降伏の使者を送っておけ。織田家の者だと帰らぬ可能性もあるし、近隣の住職などで良いだろう。諏訪の武田本陣はどうだ?」

「それが、武田信廉の逃亡や小諸城の落城を聞いて逃亡が相次いでいるようでございます。一万ほどいた軍勢も、すでに五千をきっているものかと。こうしている今もさらに減っているものと思われます」

 一益の報告を聞き、さしもの信忠も少しだけ胸を撫で下ろした。

「そうか。ご苦労であった」



 夕刻。一益が緊張した表情で戻ってくる。

「信忠様、高遠城近隣の住職に黄金を持たせて高遠城に派遣したのですが、耳と鼻を削がれて戻って参りました」

「誰が黄金を持たせよと言った。相手によってそれは逆効果であるぞ」

「申し訳ございません」

 一益は平伏する。これまで一益が相手にしてきた伊勢の豪族らは金を積めばたちまち態度を変える者が多かったため、無意識のうちに一益は人間とはそのようなものだと思い込んでいた。


「では明日にも攻めかかりましょう。懸念していた武田本隊が戦わずして壊滅しているようであれば恐れるに足りません」

 一方、一益の報告を聞いた秀隆は鼻息荒く総攻撃を進言する。が、信忠はなおも慎重さを崩さなかった。

「秀隆。佐久にいる利家に使者を出し、明日、諏訪の武田本陣を突くように指示せよ。そのために佐久からの侵攻を待たせていたのだからな。我らは時を同じくして高遠城に攻めかかる」

「は、はい、かしこまりました」

 衰勢の武田を前に全く手を緩めない信忠の慎重さに秀隆はかしこまるしかなかった。



二月二十八日 佐久

「重家様、武田本陣に放っていた者より報告です。武田本陣は相次ぐ敗報に逃亡が相次ぎ、すでに残りの兵士は二千ほどと思われます」

 出発の日の朝、千代女からの報告を聞いた俺は驚いた。最初は確か一万ほどいると聞いたが、一戦もしないうちにそこまで減っていたとは。

「諏訪には要害などはあるか?」

「一応上原城や高島城はありますが、昔ながらの城です。織田軍の総攻撃に堪えるものではないでしょう」

 千代女は淡々と述べる。千代女からの報告には哀愁すら漂っていたが、これも戦国の習いである。


 利家は早朝に軍勢を出発させ、山道を溢れかえりながら諏訪を目指した。ただでさえ一万五千ほどの軍勢が狭い山の中を行軍しているというのに、利家は周辺の住民を連れ出して軍勢を多く見せ、二万以上の大軍と称しながら行軍したので、さらに山道は歩きにくかった。

 千代女ら忍びを始め、地元の土豪らの降伏も相次いでいるため、道に迷うことはないが、純粋に道に対して軍勢が多すぎるのである。


 そんなこんながあったため、俺たちが諏訪盆地に近づいたのは昼過ぎになっていた。そこで俺は眼下に広がる諏訪盆地を見て息を呑んだ。


 盆地の中央にはきれいに澄み渡った諏訪湖が広がっており、その周辺にあった諏訪大社には火がかかり、真っ赤に燃えている。その青と赤の対比は幻想的ですらあり、一時ではあるが見とれてしまう。

 そしてさらに南側に目をやると、撤退していく武田軍の最後尾と思われる兵士たちがかすかに見えた。


「まさか我らが行軍に難渋している間に逃亡しているとはな」

 慌てて盆地に降り立ち、消火を始めたがすでに諏訪大社の大半は燃え尽きていた。死なばもろともということなのだろうか。

 続いて入った続報によると武田軍は新府城に入ったという。甲斐には大軍を防ぐ城がないため、勝頼が甲斐の玄関口である韮崎に築かせた巨城と言われている。



同日 高遠城

「盛信様、諏訪の武田本隊が撤退を始めたようにございます」

 内山城から援軍に入っていた小山田昌成が盛信に告げる。勝頼の弟である盛信はそれを聞いても表情を変えなかった。元々、信濃の山中に入り込んだ織田軍を飯田城や大島城で食い止めている間に盛信が背後の補給部隊などを襲い、長期戦に持ち込む。そして勝頼が木曽を討って疲弊した信忠の背後を襲うという作戦だったが、信廉の逃亡によりそれも叶わなくなった。

 それでも城兵の間には高遠城で防いでいる間に武田本隊が織田軍の背後を襲うという期待もあったようだが、それも叶わなくなった。


「そうか。それならば我らは御屋形様の撤退の間、敵を通さぬだけだ」

 すでに死を覚悟していた盛信は淡々と述べた。

 最初は三千ほどいた城兵も、立て続けに舞い込む敗報により次々と数を減らし、現在は一千を切っていた。対する織田軍は三万を超える上に、降伏した豪族などを加えて増え続けている。眼下をびっしりと埋め尽くす織田軍を見て盛信は息を吸った。


「皆の者! 今城に残っている者は真の武田武士である! 皆の忠義と武勇、織田軍に示そうぞ!」

「おおおおっ!」


 盛信の言葉に兵士たちは奮い立つ。残った兵数が少なくなったからか、盛信は全員に声を掛けて回ることが出来た。

 すると、まるでそれを待っていたかのように三万の織田軍が一斉に攻撃を仕掛けてきた。


 夕方、城兵の奮戦もむなしく高遠城は落城した。

 信忠軍の侵攻経路で唯一の抵抗らしい抵抗であった。

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