第563話 心菜ちゃんと同じ景色を
県大会、当日。
俺はウナ大から出場する3人のメンバーを受け持つ。
ただ、心菜ちゃん以外の2人は正直言って、良い結果を残すのは難しそうである。
だからと言って手抜きなんてするつもりは毛頭なかったのだが、俺の熱の入りようにむしろその2人が遠慮する。
「あの、桐島さん! ウチらの事は良いんで、心菜ちゃんに付いてあげてください! ウチら記録会にも出てないですし!」
「バカ! そんなことできるか! 君らの補助は誰がするんだよ!!」
「大丈夫でーす。私たちが見ますので!」
いつの間にか、応援席から四年生の女子が4人やって来ていた。
彼女たちは市の記録会に出られず引退している。
それでも練習を一生懸命にこなす素晴らしい選手たちである。
「いやいや! 俺ぁちゃんと給料貰って働いてんだから! そんな訳にゃいかねぇって!」
「出たー! 桐島さんのマジメー! そう言うなら、心菜ちゃんを絶対に勝たせてあげてください! それがウナ大水泳部の総意なんで! ね、みんな?」
他の3人も頷く。
それでも俺は「しかしなぁ!」と食い下がる。
すると、ボスがやって来た。
「桐島くん。我々はベストを尽くすためにここに来た。部員が考えたベストをYouひとりが反対したところで、多勢に無勢だよ」
セギノール監督。
この3年ですっかり日本にも慣れて、日本語も
「ほら、見て桐島くん。心菜、ひとりでウォーミングアップしてる。Youは彼女の事を放っておく気? ゴーゴー、サムライボーイ!!」
「ぐっ。わ、分かりました! すまん、みんな!」
「じゃあ、打ち上げは桐島さんの奢りで焼肉ってことで! 行ってらっしゃい!」
俺は心菜ちゃんの元へと走る。
高校時代からずっと思っていることだが、俺の周りにはいい人ばかりが集まる。
もしこれが俺の才能的なものだとしたら、神に感謝しなければならない。
サンキュー、ヘイ、ゴッド。
「心菜ちゃん! 水分補給した? ストレッチはやり過ぎないように! 予選だから、セーフティリードを保てたと確信できたら流して良いよ。でも、油断は大敵!!」
キョトンとした顔の心菜ちゃん。
しまった、気合の入れ過ぎでプレッシャーをかけてしまったか!?
「ぷっ、あはは! 公平兄さま、慌て過ぎなのです! 心配しないでも、心菜、もう何回もこの日の事を考えて来たから、緊張なんてしないのです! ただ……」
「おう。どうした? 何でも言ってくれ。俺ぁ、心菜ちゃんのトレーナーだ!」
何かを言い淀んだ心菜ちゃん。
選手の集合まではあと20分。
言いたい事は全部吐き出させてあげないと、集中できなかったら大変だ。
「はいです。公平兄さまは、心菜のために、本当にトレーナーになってくれたのです」
「おう。おう? そりゃあなるよ。俺がなりたかったんだもん」
「はわ……。兄さま、そーゆうところは初めて会った時から全然変わらないのです」
「おう。あれ、どうしたんだ? もしかして俺、呆れられてる?」
「兄さま。心菜はこれから大事なことを言うので、ちゃんと聞いて欲しいのです。1度しか言わないのです。ちゃんと言わないと、きっと心菜は泳げないのです」
「そりゃあいけねぇ! なんだ? 何でも聞くぞ!」
心菜ちゃんは笑った。
それこそ、彼女と初めて会った時と同じように、天使のような顔をして。
続けて、言葉を選びながら、彼女は言う。
「公平兄さま。心菜のワガママに付き合わせてごめんなさい。子供だった心菜の気持ちに付き合ってくれて、ありがとうございます」
何かを言うべきなのだろうか。
いや、黙って聞くべきだろう。
答えを求められたら、俺は口を開けば良い。
「心菜の気持ちは、ずっと変わらないと思っていたけど、実は少し前から変なのです。公平兄さまの事を前みたいに想えなくなってきたのです。心菜は本当にワガママな子なのです。ごめんなさい」
「公平兄さまは、心菜だけのトレーナーになってくれたけど、心菜はもうそれだけじゃ嫌なのです。だから、あの、この大会で一等賞になれたら、えと——」
「——心菜と結婚して欲しいのです!!」
さすがの俺も、面食らった。
もちろん、心菜ちゃんといずれはそういう関係になれたら良いなと思っていたし、毎日のように理想の未来を独り思い描いている。
しかし、まさかこのタイミングで、心菜ちゃんからアタックされるとは。
なんと言うか、本当にこの子には敵わない。
緊張しているように見えたのは、俺にこれを伝えるためだったのか。
自分の将来がかかる大一番なのに、彼女はもっと向こうの、その先を見据えていた。
ならば、俺も答えなければ。
その勇気に対して応える義務が俺にはある。
「実はな、心菜ちゃん。俺も、心菜ちゃんと毎日一緒にトレーニングしてる時間は充実していたけど、このままじゃ嫌だなって思う事があったんだよ。ほら、俺たちって、アレだろ? 心菜ちゃんは俺の友達の妹で。心菜ちゃんから見た俺は、姉さまの友達で。そこんとこから、上手く抜け出せてなかったって言うかさ」
「はわわ? えと、どういうことなのです?」
「うぐっ。ごめんな、俺ぁ肝心な時に口下手で。だから、なんつーか、その」
「俺は、心菜ちゃんの兄さまをヤメようと思うんだ。あまりにも居心地がいいから、それに甘えてずっとこうして過ごして来たけど、それじゃダメだよな」
やれやれ。
まったく、急に人生の大一番が巡って来るんだから、困っちまう。
俺には準備期間もないんだから、グダグダになるのも仕方ないじゃないか。
本当に、心菜ちゃんには敵わない。
俺は、どうにか言葉を捻りだした。
「とにかく、だ! 今日で俺ぁ心菜ちゃんの兄さまは引退する! それで、心菜ちゃんの旦那に立候補する! ほら、兄さまとは結婚できないだろ?」
あまりにも言葉選びに時間を割いてしまったため、ここで無情にも選手集合の声が響いた。さらにそんなに上手いこと言えていない。
内容も、ものすごく中途半端なところである。
少なからず、心菜ちゃんの泳ぎに影響してしまうのでは。
そんな心配を知ってか知らずか、心菜ちゃんはニッコリ笑って、短く答える。
「——はい! じゃあ、心菜、勝ってきます! 公平さんっ!! ふふっ!」
そう言った心菜ちゃんは、クルリと背を向けて早足でプールへと向かった。
「第5レーン。宇凪市立大学。氷野心菜さん」
心菜ちゃんの名前が呼ばれて、彼女は観客席に一礼する。
その先には。
「がぁぁぁんばれぇぇぇ! 心菜ぁぁぁ! 姉さまが付いてるわよぉぉぉ!!」
「マルちゃん、落ち着くのだっ! 落ちちゃうよぉー! 心菜ちゃん、頑張れーっ!!」
「心菜ちゃん!
「ゔぁあああぁぁっ! がんばっでぐだざい!!」
「武三さん、落ち着いて! 心菜ちゃんに、緊張が移っちゃう!」
俺の仲間たちが、俺の一番大事な人を全力で応援してくれている。
最後に声を振り絞るのは、心菜ちゃんの大親友。
「頑張るんやで、心菜ちゃん! 県大会で一番! 全国大会でも一番! そんで、オリンピックで金メダルや!! ウチの自慢の親友は、それが叶う努力をして来たんやから! ウチが太鼓判を押したる! 頑張ってやー!!」
大応援団の声が聞こえたのだろう。
心菜ちゃんは少しだけ俯いて、なんだか笑いをこらえているように見える。
これならば、コンディションの心配をする必要もなさそうだ。
それよりも、俺はてめぇの心配をしておくべきだろう。
きっと満面の笑みを浮かべて俺の胸に飛び込んで来る彼女を、どうやって受け止めたものか。
万が一プールに勢い余って落ちでもしたら、仲間たちに物笑いの種を提供してしまうことになる。それも、一生もののヤツである。
こんな事なら、心菜ちゃんと一緒に筋トレを頑張っておけばよかった。
そして、スタートの号砲が鳴り響いた。
心菜ちゃんは前だけを見て泳ぐ。
迷いのない水を
高校時代の大会の思い出がリフレインするような、圧倒的なスピード。
グングン他の選手を引き離していく。
予選を突破しただけで、未来について語るのは早計である。
だが、彼女と一緒に過ごした日々が、確実な予感を与えてくれる。
俺はその予感に身を任せるだけだ。
——さあ、表彰台に上る彼女に、何と言ってプロポーズしようか。
心菜ちゃんifルート、完。
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