第560話 心菜ちゃんと記録会

 充実した時間ほど過ぎるのは早い。

 俺が大学を卒業して、夏が来て秋が来て冬が来て、また春が来た。


 無事に理学療法士の資格を取得した俺は、花祭スポーツジムで働いている。

 まさか、大学を出て再び花祭系列と関わることになろうとは。

 当然の事ながら、花祭と名前が付く以上、俺のよく知っているチョビ髭のおっさんが経営していた。


 採用試験に行く前まで気付かなかった自分の鈍さに、呆れを通り越してセクシーを覚えた。


「あららー! 桐島くんじゃないのー! おひさー!!」


 集団面接でいきなり代表に手を振られた時の俺の気持ちがお分かりいただけるだろうか。

 ならば他所へ行けば良いと思われるだろうが、そうもいかない。


 宇凪市でスポーツドクター、スポーツトレーナー、そして理学療法士。

 それらの経験を1度に得ることができるジムは、ここだけだったのだ。


 専門学校の学友たちの間でも、「花祭ジムは良いよね!」と専らの噂であった。


 こうして、無事に花祭ジムに就職した俺。

 言っておくけど、コネではない。

 大学の成績だって、五指に入る水準まで戻していたし、面接も完璧にこなした。



 あのチョビ髭に敬語使いながら頭を下げたのだ。



 ついでに、ずっと謎だった学園長の名前も判明した。

 祭屋まつりや仙之介せんのすけというらしい。

 なんだか高名な歌舞伎役者みたいな名前で、そこはかとなく腹が立った。



 ジムで働きながらスポーツトレーナーとしてのノウハウを学ぶこと1年と少し。

 驚くことなかれ、今年から俺はウナ大のトレーナーの1人として正式に迎えられる事となった。


 これまでも練習の補佐をしていたけども、それはあくまでもボランティアで、雑用中心のお手伝い。

 それが、たった1年で正式なトレーナーの一員に加えてもらえるなんて。

 杉谷教授とセギノール監督には感謝の思いしかない。


 ウナ大のトレーナーとの兼務を認めてくれた学園長、ではなかった、祭屋代表にも、一応感謝している。

 そんな訳で、この春から俺は心菜ちゃんの隣に堂々と並び立てる身分を得たのだ。



「……ぷはっ! 兄さま! タイムどうですか!?」

「おう! 悪くねぇぞ! ただ、記録会が近いからってオーバーワーク気味だからね。今日はもう2本流したら、終わりにしよう!」


「はいなのです! 兄さま! あっ、トレーナー!」


 心菜ちゃんの言い間違えに、周りの部員たちから笑いが起きる。

 彼女もこの春から大学三年生。

 多くの後輩もできたし、部内ではぶっちぎりのエースとして皆に慕われている。


「桐島くん! ちょっといいかね? 県の記録会についてなんだけども」

「はい。なんでしょうか、杉谷先生」


「うちからは今年、氷野さんだけしか出さないことにしたんだよ」

「そうですか。みんな頑張ってるから、全員出してあげたいですけど、そうもいきませんしね」


「うむ。それで、記録会のトレーナーも頼めるかね? 正式採用してからすぐにこき使ってしまって申し訳ないんだけど。私も行くが、コーチングに関しては君の方が絶対に優れているからね」


「もちろんっす! そのために雇ってもらったようなものですから!」

「いやはや、まったく若者の恋の力は凄まじいな。私には眩しいよ」


 杉谷教授が大きな声で喋るものだから、周りの部員から今度は「ヒュー!」とはやし立てられる。

 かつてそんな口癖の友人もいたけれど、元気でやっているだろうか。


「兄さま! 泳ぎ切ったのです!」

「おう! そんじゃ、柔軟とクールダウンして着替えておいで。俺ぁ最後まで見て行くから、先に帰ってても良いよ」


「待っているのです! 公平兄さまのジャージ姿、カッコ良くて好きなのです!」

「そう? 中身はヒョロヒョロのエノキタケだけどね」


 記録会は来週の末に控えている。

 全国大会への切符は、記録会と県の水泳大会の結果を複合した結果で決まる。


 油断せずに、しかし気負わせすぎないように。

 色々と注意しながら、もちろん怪我には最大限の警戒を。

 そんな風に毎日を過ごしていたら、あっと言う間に記録会当日がやって来た。



「心菜ちゃん! 応援に来たでー!!」

「はわっ! 美空ちゃん! ありがとうなのです!」


 今日は金曜日。

 俺の仲間たちも今ではみんなが社会人。


 応援に行くと言ってくれたが、それはまたの機会にと断った。

 県大会の際に応援の力を溜めておいて欲しいと付言して。


 無事に警察官になった氷野さんは「ちょっと見回りとか言って抜け出してくるから!!」と言って聞かなかったが、心菜ちゃんと2人がかりで説得した。

 警察学校出て、着任したばかりなのに。

 風紀と正義の使者が職権乱用しちゃいかんよ。



 こち亀じゃないんだから。



「ほんなら、ウチは上で応援しとるで! 公平兄さん、愛する心菜ちゃんのこと、よろしく頼んまっせー!!」

「はわわっ! 声が大きいのです、美空ちゃん!」


「おっしゃ! 任せといてくれ!!」

「兄さまも!! 恥ずかしいのですー!!」


 良い感じに緊張がほぐれた心菜ちゃん。

 開始時刻をしっかり確認して、ウォーミングアップに入る。


 手続きは杉谷教授が担当してくれるので、俺は心菜ちゃんに付きっ切り。

 まったく、ありがたい配慮である。


「心菜ちゃん、気負い過ぎずに行こう。県大会の結果の方が重視される訳だし、変に力を入れて怪我しちゃ元も子もねぇ。あ、でも手ぇ抜けって言ってるわけじゃねぇよ」

「あははっ! 分かってるのです! 兄さまは心配性なのです!」


「そりゃあそうだとも。心菜ちゃんの心配を一番近くでするために色々と頑張ってきたんだからな。精々、めいっぱい心配させてくれ!」

「もうっ! そんな言い方、ズルいのです……!」


 杉谷教授がやって来て、そろそろ時間だよと告げる。

 俺が傍にいてあげられるのは、控室まで。

 最後に「頑張れ!」と言って、彼女の背中を押した。


 以降は、万が一の時に備えて、トレーナーの待機室にて状況を見守る。


 水泳の勝負はすぐに決まる。

 心菜ちゃんが出場するのは100メートル自由形。

 他の種目も得意な彼女だが、今年は最もタイムが良い種目一本に絞ろうと言う、セギノール監督の方針だ。


 そんな事を思い出していると、あっという間に心菜ちゃんの番が巡って来る。


 そして、重ねて言うが、勝負は一瞬。

 1分もかからないうちに終わる。


 現時点では全体の1位と言う文句のない結果。

 なにより、無事に泳ぎ切れて、怪我がない事が喜ばしい。


 あとは美空ちゃんと合流して、3人で最終結果を待つ。

 杉谷教授は「私みたいなおじさんは、下で他の大学の先生と話でもしてくるよ」と気を利かせてくれた。

 さすが東京出身の江戸っ子。粋な計らいである。


「最終組が泳ぎまっせ! ううー! こんなん思うたらあかんの分かっとるけど、ちょっとくらいスタート失敗せぇへんかなー!!」


 美空ちゃんらしいエールは、俺と心菜ちゃんを笑顔にする。

 こんな親友を持てた心菜ちゃんは実に幸せ者だと思う。


 このレースも瞬く間に終わり、最終結果が出た。



 全体で3位。



 正直に言えば、今年の県大会レベルで心菜ちゃんは頭一つ抜けている選手。

 だから、満足のいく結果とは言えない。

 もしかすると、種目を絞ったことによってプレッシャーがかかってしまったのかもしれない。


 こんな時にフォローをするのが俺の仕事。

 だけど、心菜ちゃんが先に口を開いた。


「むふーっ。3位だったのです! でも、タイムの差はほんのちょっとだから、大会で逆転可能なのです! 全然平気なのです! ね、兄さま?」


 かつて、大学に入りたての頃、合宿で思うような成果が出せずに落ち込んでいた頃の、弱い心菜ちゃんはもういない。

 彼女は、俺よりも先に前を向く。


 ならば、俺だって一緒に前を向かなければ、何のためのトレーナーか。


「おう! 今日の泳ぎも悪くなかったし、こいつぁハンデにしておこう! ちょいとピンチの方が、燃えるってもんだよな!」

「えー! 兄さまがそんな事言っちゃダメなのですよー!!」


 県大会は2か月後。

 俺は、この大切な恋人を支えるためならば、全てを捧げる所存である。

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