第552話 心菜ちゃんと水泳

 7月某日。

 俺は、宇凪市の市立スポーツセンターにあるプールへとやって来ていた。


 泳ぎに来た訳ではない。

 と言うか、今更俺が潜水泳法を披露して、それを見たいゴッドはいるだろうか。


 ほら、ゴッドは興味がないとすぐに返事をサボる。


 今日は、宇凪市内の高校が集まって、競泳の一等賞を決めようじゃないかと言う大一番。

 この大会の順位によって、県大会に出られるかが決まる。

 その先には全国大会が待っているのだから、気が抜けない。


 もちろん、心菜ちゃんの話である。


 3年間の集大成、いやさ、彼女は中学生の頃から頑張っているのだから、アリエル女学院で過ごした6年間の集大成として、この大会に賭けてきた。


 俺が応援せずに、誰が応援すると言うのか。


「おーい! 公平兄さん! こっちですー! こっちー!!」

「おう。美空ちゃん。ごめんな、案内させちまって」


 心菜ちゃんの親友、関西っ子の美空ちゃん。

 彼女も高校三年生になり、すっかり大人っぽくなった。


「いえいえ、気にせんといてください! と言うか、公平兄さん一人で女子の大会見てたら、通報されるかもですし! 心菜ちゃんが泣きますって!」


 それはまさにその通りなのだが、ハッキリ言われると少しモニョっとする。


「そう言えば、氷野さんは? 絶対に応援に行くって言って、まだ夏休みに入ってないのに宇凪に帰省してるって聞いたんだけど」

「マル姉さんなら、もう観客席の最前列に陣取ってます! ビデオと写真両方撮るんだ言うて、三脚立ててはりましたよ!!」


 さすがは氷野さん。

 俺が心配するのは失礼だったか。


「まだ始まるまで1時間ありますから、心菜ちゃんに声かけてあげてください!」

「マジで? 話せるの?」

「しっかり話つけときました! ウチと一緒なら大丈夫だそうっす!」


 美空ちゃん、立派に成長して頼もしくなっている。

 精神的な成長を未だぐずっている俺は、そんな彼女の後を姿勢正しく着いて行く。


「心菜ちゃん! 公平兄さん連れて来たで!」

「はわ! 兄さま! わざわざお忙しい中、ごめんなさい!」

「いや、心菜ちゃんのために使う時間が一番大事だからね。気にしないで」


「……あの、公平兄さん。ちょっといいですか?」

「おう。どうした、美空ちゃん」



「あの、心菜ちゃん競泳水着姿ですけど、絶叫しないんかなぁ思いまして」

「美空ちゃん。さすがに俺だって時と場合くらいはわきまえるよ?」



 俺、今月で21になるんだけど、美空ちゃんの信頼を獲得するに至らず。

 仕方ないのだ。

 俺と心菜ちゃんの歴史は、魂の叫びの歴史。


 俺をよく知る者ほど「なぜベストを尽くさないのか」と思うのも道理。


 しかし、俺もほぼ1年、毎日のように心菜ちゃんと顔を合わせているのだから、必然的にウルトラソウル値の沸点も上がってくる。

 今では、少々のことならばウルトラソウル値を正常のままでいられるようになった。



 と言うか、ウルトラソウル値ってなんだ。



 まあ、それは良い。

 今は、心菜ちゃんを激励して、緊張をほぐしてあげなければ。


「心菜ちゃん、あんまり緊張してないね?」

「兄さまの顔を見たら、緊張もどこかに飛んで行ってしまいました!」


「そっか。俺のしょっぺぇ面で良ければ、いくらでも見て落ち着いてくれ」

「むすーっ! 兄さまの顔はカッコいいのです! 心菜のお気に入りなのに、悪く言うなんてひどいのです!!」


「あー。お熱いですなぁー。まさか、公平兄さんと心菜ちゃんがこんな関係になるなんて、ウチも予想外でしたわ。察した時には思わず実家に電話しましたもん」


 俺と心菜ちゃんの恋愛事情が関西圏にまで!


「心菜ちゃんの事だから、俺が差し出口挟む必要もないと思うけど、準備運動だけはしっかりとな。結果はもちろん大事だけど、怪我なく終えることが一番だから」

「はいです! もうバッチリなのです!」


「氷野部長ー! そろそろお時間です!」


 心菜ちゃんは水泳部の部長をしている。

 実力と人望を兼ね備えた彼女ならば、それも納得。


「はーい! 今行くのです! では、兄さま、美空ちゃん! 心菜、頑張ります!!」


「おう! 頑張って! 俺ぁ客席から精一杯声出すからな!」

「ウチも応援しとるで! 目指せ、全国! 頑張れー!!」


 にっこり笑った心菜ちゃんは、呼びに来た後輩部員と共に、奥へと駆けて行った。

 俺は、美空ちゃんの案内で観客席へと向かう。

 アリエル女学院の応援ブースに入れてもらえたのも、彼女のおかげ。



「遅いわよ! 公平! 何してんの!! はい、こっちのカメラ支えてて! 心菜の泳ぎに合わせて、ちゃんとスライドさせるのよ!!」


 氷野さんは既に戦いを始めていた。

 心菜ちゃんが出て来るまで、まだ15分もあるのに。


「なんか、こうしていると心菜ちゃんの水泳の記録会見に行った時の事を思い出すね。氷野さんと一緒にさ。あの時も美空ちゃんが案内してくれたし」

「あはは! せやったですね! あの時以上の応援を期待してまっせ、兄さん!」


「まあ、公平も心菜のために色々とサポートしてくれたみたいだし? 特別にここにいる事を許してあげるわよ」

「おう。ありがとう、マル姉さん。大丈夫、女の子の価値は胸の大きさじゃないからぁぁぁぁ痛い痛い痛い痛い痛い」


 氷野さんのアイアンクローを喰らっておかないと、やはり気合が入らない。

 心菜ちゃんの応援はこうでなくては。


「あっ! ほら、出て来たわよ! 心菜ぁー!! 姉さま見てるわよー!! 心菜ぁー!!!」


「氷野さん、落ち着いて! 周りの子達が引いてるよ!」

「公平兄さん……。マル姉さんをいさめるなんて、立派になられて……」

「美空ちゃん? ちょっと失礼なこと言ってねぇで、一緒に姉さんの暴走止めてくれる!?」


 心菜ちゃんは第3レーン。

 「アリエル女学院高等部、氷野心菜さん」とアナウンスされると、「はい!」と堂々とした返事をして、観客席に一礼する。


 さすがに俺も緊張してきた。

 レースは1回。人生も1回。ならば、1度のミスですべてが終わる。


 神様仏様、ゴッド様。

 俺から持って行けるものがあれば、何でも持って行ってくれて結構。

 だから、心菜ちゃんに実力を発揮させてやってくれ。


 俺たちの想いとは関係なく、レースは無機質な号砲と共にスタートした。

 心菜ちゃんが最も得意とする、100メートル自由形。


 スタートと共に、彼女の力強いストロークは、素人の俺でも他の選手とものが違うと確信する次元の速さで、先頭に立ったかと思えばグングンと差を広げていく。


「頑張れ! 心菜ちゃん!!」


 そう一言叫ぶのが精いっぱいで、息を吞むとはかくあるべしかと、俺はただ心菜ちゃんを見守った。

 そして、たった1分ほどのレースは瞬く間に決着を迎えた。


「1着、第3レーン。氷野心菜さん!」


 誰の目から見ても文句なし。

 ぶっちぎりの一等賞。

 俺たちは「わぁぁ!!」と歓声を上げて、彼女の栄光を称える。


 その後行われた、100メートルバタフライと、200メートル個人メドレーでも1着を獲得した心菜ちゃん。

 俺たちは、大いに沸いた。


 氷野さんは途中からわんわん泣くので、彼女の持参したカメラには、主にその泣き声がBGMとして収録される事になった。



「兄さま! 心菜、やりました! やったのです!!」

「おう! やったな、心菜ちゃん! 見てたぞ! カッコ良かった!!」


 レース終了後。

 着替えた心菜ちゃんが、俺を見つけると一目散に駆けてきた。

 飛びついてくる彼女を、俺は貧相な腕で受け止める。


「ぐぬぬぬぬっ! 公平のヤツぅ! なによ、私の方が大きな声出したのにぃ!!」

「まあまあ、マル姉さん。心菜ちゃんも頑張りましたから。大好きな人に一番の報告をさせてあげてください」


「心菜、次の大会も頑張るのです!」

「おう! 俺ぁどこにだって応援に行くぜ!!」



 そして、心菜ちゃんは有言実行を果たした。

 頑張った彼女は、県大会でも優勝。

 全国大会では惜しくも優勝を逃すも、3種目ともに入賞。


 輝かしい成績を残した。


 その結果が、心菜ちゃんと俺の将来を大きく変える事実。

 当然のことながらこの時点では誰も知らないのである。

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