第185話 防波堤とキス

「ふぃー。やれやれ、ちょいと疲れちまった」

「す、すみません、公平先輩。あたしがふざけちゃったから……」

「おいおい、気にすんなって。この程度、アクシデントのうちに入らねぇよ」

「……先輩」



 防波堤で二人、揺れる水面を眺める。

 大切なのは、花梨に嫌な思い出を作らせないことである。

 自分が原因で起きた事故と言うのは、どんなに規模が小さくても、心の中にずっと残ってしまうものであり、そんなものの存在を俺は許さない。


「俺なんて、小さい頃、海で釣りしてたら、竿ごと落ちたことがあるぞ」

「えー!? 大変じゃないですか!」

「しかも、親連中が誰一人として気付かねぇでやんの」

「ど、どうしたんですか!? まさか、岸まで泳いだんですか!?」

「いや、無理、無理。その頃の俺、泳げなかったからな」

 実際の出来事である、

 世の中の親には、海で子供から目を離すなと強く啓発けいはつしていきたい。


「ただ、ライフジャケット着ててな。まあ、慌てても仕方ねぇなと思って、しばらく海に浮いてたんだよ」

「す、すごいお話ですね……」

「なーっ? ひでぇ話だろ? しかも、最終的に俺を見つけてくれたの、全然知らねぇおじさんだったからな! おじさんも、知らねぇガキが釣れて面食らってたよ」

「あははっ! そんなのビックリするに決まってるじゃないですかー!!」


 花梨の顔に笑顔が戻る。

 さて、もう一息。


「だから、ちょいと浮き輪から落ちたくらいで気にすんな!」

「……はい。ありがとうございます」

「なぁに、俺ぁ花梨の胸に触れたし、結構ラッキーだったと思ってんだぜ?」

「あー! あたしがパニックになってる時に、そんな事考えてたんですかぁ!?」

「おう。柔らかいなぁ、とか考えてた!」

「もぉー。先輩のエッチ! ひどいです!」


「そうなんだ。俺ぁひでぇヤツなんだ。まあ、そういう訳だから、これからもどんどん浮き輪から落っこちてくれたまえよ、花梨くん!」

「ぷっ……あはははっ! 先輩、せっかくカッコ良かったのに、台無しですよー」

「後輩の胸に触れて喜んでる野郎にカッコ良いも悪いもねぇって!」

「……そうですね。先輩はカッコいいとか、もうそんな言葉じゃ表せないです」


 ふいに、花梨の顔が俺の汚いつらに近づく。

 そして、そのまま、彼女の唇が俺の頬に触れた。



「上手く表現できましたか? これが、あたしにとっての先輩への気持ちです!」



 今、何をされたんだ?

 頬っぺたに、なんだか柔らかくて温かいものが……!?

 おいおい、まるでこれじゃあ——



 ——俺は、キスされたみたいじゃないか。



「か、花梨!? 花梨さん!? い、今のは!?」

「あははっ! あんなにカッコ良く助けてくれたのに、うろたえ過ぎです、先輩」

「いや、だって、これ、ねぇ!?」

「惚れっぽい後輩が、ちょっぴり勇気を出しただけですよ? せーんぱい!」

 そして花梨はこう付け加えた。



「お口にキスするのは、もう少し勇気が出てからにします! えへへ」



 ちょっと前まで後輩のためにバカな話をしていた男が、反撃にあった結果、更にバカな顔をしてほうけるという惨事が起きていた。

 俺は、何かとんでもない事をされたのではないか。

 考えるまでもなく、それはとんでもない事であった。


「先輩! そろそろ戻りましょう! 喉が渇いちゃいました!」

「お、おお、おう! そ、そんじゃ、戻るか?」

「はい! 公平先輩号、再発進でお願いしまーす!」

「ま、任せとけ」


 砂浜へ戻るまでの間、俺はもう、上の空どころの騒ぎではなかった。

 ほんの一瞬。

 ほんの数秒の接触だったにも関わらず。

 今でも花梨の唇が触れた部分が熱を持っているように思われて仕方がない。

 小悪魔の魔法に魅了されてしまったかのようである。



「あーっ! コウちゃんと花梨ちゃん! おかえりーっ!」

「結構遠くまで行ってたわね。泳げない冴木花梨のために骨を折るなんて、意外と気が利くじゃない、桐島公平!!」

 俺たちを、浅瀬で遊んでいた毬萌と氷野さんが出迎えた。


「えへへ。ちょっとしたクルーズ旅行をしてきましたー」

 はにかむ花梨の元へ、トテトテと心菜ちゃんがやって来る。

「花梨姉さまー。あっちで鬼神兄さまを埋めてるのです! 来てくださいですー」

「あー、はいはい。分かりました! 行きましょう!」

 花梨は俺に笑顔を見せて、心菜ちゃんに手を引かれて行ってしまった。


「んーっ? コウちゃん、どうかしたのーっ?」

「い、いや、なんでもねぇ!」

 なんだ、今の罪悪感のような、チクリとした心のささくれは。

 別に俺は、誰かにはばかるような事をした訳ではないはずだ。

 ……そう。……そのはずなんだ。


「ちょっと、俺ぁトイレ行ってくる」

「うんっ! 行ってらっしゃーいっ!」

 ならば、俺はなにゆえ毬萌から逃げるようにその場を離れるのか。

 この後ろめたいような感情はなんだ。


 海の家に行って、トイレを借りて、手を洗う。

 そして備え付けの鏡を見る。

 このかさついた肌に、花梨の唇が触れた。

 その事実だけは、曲げようのない真実であると、鏡の向こうの自分にさとされているような気持になった。

 まったく、俺のくせに、随分と偉そうなことを言うじゃないか。



 ビーチパラソルのところへ帰ってくると、そこには鬼瓦くんが居た。

「ああ! 桐島先輩! 楽しんでおられますか?」

「おう。……鬼瓦くんも、たいそう楽しそうで結構だな」



 鬼瓦くんは、首だけが地上に出ており、体は砂の中のようである。

 一体どれほどの穴を掘れば、長身の彼がすっぽりはまるのか。

 聞けば、心菜ちゃんがどうしても鬼瓦くんを埋めたいと言い出して、勅使河原さんと途中参加の花梨の三人で頑張った結果がこれらしい。


「……そんで、みんなは?」

「毬萌先輩がビーチフラッグ大会をしようと言うので、行ってしまいました」

「……そうか」



 俺は、埋まり瓦くんの横に腰を下ろした。

 鬼神死体遺棄。

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