第184話 花梨と漂流

「せんぱーい! 一緒に海に入りませんかー?」

「おう。いいぞ」



 毬萌と氷野さんの体にまでボディローションを塗らされる羽目になって、ちょうど居心地が悪かったところである。

 そんなタイミングでのお誘い。

 断る理由がない。カバンの中も机の中も探したけれど見つからない。


「ちょっとだけ沖の方に行ってみたいんです!」

「おう。でも、あんまり向こうまで行くとあぷねぇからな」

「公平先輩と一緒だったら平気ですよー」


「コウちゃーん! ローション返してきていーい?」

「……ん? ローションって何のことですか?」

「おっし! 水平線の向こうまで行くとするか!! ついて来い、花梨!!」

「あ、はーい! 嬉しいです! レッツゴーですね!!」

 重ねて言うが、こんな面倒な案件が露見するまで、ここに居る愚行を誰が犯そうか。

 一応理由を探したさ。

 旅先の店、新聞の隅、こんなとこにあるはずもないのに。


「えへへ、公平先輩号を独り占めですねー! ヨーソローなんちゃって!」

「ご機嫌うるわしいようで良かったよ。花梨船長」

 ただし、公平号のスピードはかなり遅い。

 バタ足で推進力を得ているのだが、いかんせんその元となるバタ足の出力不足は否めない。

 潜水は筋力を使わずに、感覚で泳げるし、平泳ぎは筋力を使うとは言えバタ足ほどではないからして、そもそも俺はバタ足やクロールの鍛錬をしていない。


 つまり、小学生に毛が生えた程度のバタ足なので、超鈍足戦艦である。

 まあ、誰かとスピードを競う訳でもないから、良しとしよう。

「あ、先輩! クラゲがいますよ!」

「おう。って、花梨! ダメだ、ダメ! 触っちゃいかん!!」

「え、そうなんですか?」

 聡明な花梨としたことが、これはどうした。


「クラゲにゃ毒があるから、うかつに触ると奇麗な肌に傷がついちまうぞ」

「知らなかったです。こんなにプニプニしてるのに」

「……もしかして、花梨さん。海来るの初めて?」

「はい! 日本の海は初めてです!」

「ん? 日本の海?」

「ハワイとかなら、何度かあります!」

 ああ、なるほど。


 母が見ていた金持ちが旅行する旅番組をチラ見した時に言ってたなぁ、何とかいうセレブタレントが。

 「ハワイのリゾート地になってる海にクラゲはいない」とか。

 お金持ちならではの世間知らずか。

 優秀な花梨にも知らないことがあるとは、意外だが、可愛いと思ってしまう。


「そういやぁ、そもそも泳げねぇのに海になんか行かねぇか!」

「も、もぉー! 公平先輩、あたしの事、子ども扱いしてるでしょう!?」

「いや、してねぇよ? 可愛いとこがあるなぁってだけで」

「……ふ、不意打ちはズルいって……い、言ってるじゃないですかー」

 何やらモジモジする花梨。


「あ、もしかしてトイレか? いてぇっ」

「公平先輩のバカ! なんで今のムードでそんな事言うんですか!?」

「いや、トイレ我慢してんのかなって。あいててててっ、か、髪引っ張んなよ!」

 俺の母方のじいちゃん、若くしてハゲてんだぞ!

 そして、母の兄さん、つまり、伯父さんも若くしてハゲてんの!!

 俺は日々隔世遺伝に怯えてんだから、せめて引っ張るなら別のとこにして!!


「もぉー。公平先輩には、一度乙女心のマナー講座を受けてもらいたいです」

「そんな良い講義があるなら、俺もぜひ受けてぇな」

「あ、やっぱりダメです!」

「おう。なんで?」

「これ以上先輩がモテちゃうと、ライバルが増えすぎて困ってしまうので!!」

「はははっ! 俺がモテるんなら、誰だってモテるだろ? モヤシだぞ、俺」

 花梨は大げさにため息を吐く。


「せんぱーい? そーゆう、無自覚なとこがダメなんですよー?」

「おう。すまん」

 ジト目で見られると、反射的に謝ってしまう。


「いま、適当に謝りましたね?」

「バレてしまったか。花梨は騙せねぇなぁ!」

「もぉー! 先輩ってば、ひどいです! それ、それぇ!!」

「うおっ!? ちょっと、待って、目に海水が!!」

 花梨がスラリと伸びた足で、器用に水しぶきをたてる。



「きゃあっ」

 あまりにもはしゃぎ過ぎたせいだろう。

 花梨はバランスを崩して、浮き輪ごと転覆してしまう。


「おっと。こりゃあ、いけねぇ」

 俺は速やかに花梨を抱きかかえる。

「ぶはっ! せ、先輩、先輩、先輩! お、溺れちゃう!!」

 この辺はちょうど水深が俺の身長くらいある。

 つまり、花梨の足は水底に届かない。


「お、落ち着け、花梨! 大丈夫、大丈夫だから!!」

「だ、だってぇ、足、足がつかなくて! こ、怖いです!! ひゃっ!」

 ダメだ。これは、エチケットを守っていては本当に溺れてしまう。


「すまん、花梨! 体に触るぞ!」

「先輩、先輩、助けて下さいぃ!!」

 俺は、花梨の背後に回り、胸の下をガッチリ掴む。

 通常、このように救助方法を知っていても、よほど体力に自信がないとミイラ取りがミイラになるパターンが待っている。


 今回は、浮き輪がすぐそばにあるし、俺はつま先立ちで水底に足がつくので助かった。

「ほら、浮き輪掴んで、落ち着けー! 大丈夫だから! しっかり俺を見ろ!」

「は、はいぃ! はあ、はあ、う、浮き輪、掴めましたぁー」

 無事にレスキュー完了。

 やはり、遊泳は足の着くところで。

 基本を守ることの重要性を再確認。



 とは言え、疲れた。

 暴れる花梨を持ち上げただけなのに、凄まじい体力の消耗。

 俺は、すぐそばにある防波堤を見て、花梨に提案をする。


「ちょっとそこに上がって、休憩しよう」

 俺が先に行き、貝やフジツボなど、足を切るようなものがないかを確認。

 うむ。問題なさそうである。

 昼前にここから海に飛び込む少年たちを見かけた事を思い出す。

 もしかすると、飛び込み場として手入れがされているのかも知れなかった。


「よっと。おし、花梨、手を伸ばして。うるぁあぁぁぁぁっ!!」

 女子一人引っ張るのに大仰おおぎょうに叫ぶな?

 逆に聞きたいけど、俺が叫ばない理由はあるかい? ヘイ、ゴッド。


「ひゃっ! あ、大丈夫です。登れましたー」



 こうして俺たちは、防波堤の上へ。

 随分スケールの小さい漂流者の誕生であった。

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