第145話 避難訓練と密室と花梨さん

「……今なら、誰も来ませんよ? せーんぱい」



 花梨と俺。

 二人きりの放送室。


 どうしてこのような事になったのか。

 少しばかり時間を巻き戻してみる必要がある。



 今日は避難訓練が行われる。

 花祭学園の避難訓練は、割とガチである。


 まず、それが訓練であるのか否か、判断がつかない。

 と言うのも、避難訓練が実施される事実を知る者が極めて少ないのである。

 教職員。そして、生徒には、生徒会と風紀委員にしか知らされない。


 さすがに、二年生、三年生になると、同じ時期に行われるので、火災報知機の音が聞こえると「もしかして、今日は避難訓練か?」と予感はできる。

 だが、万が一本当の火災だったらと言う疑念をも払拭するに至る生徒は極めて少数であり、『かもれしない行動』を取らざるを得ない。


 一年生にしてみれば、もうそれは訓練でもなんでもない。

 本当に、何の前触れもなく火災の発生を告げられるのだ。

 俺も去年はさすがに驚いた。

 そして、パニックにならぬよう、風紀委員が中心となって避難誘導が始まる。

 校庭へ駆け出して、いささか弛緩した空気の上級生を見て、ようやく「あれ、これ訓練じゃね?」と気が付いた。


 訓練としての効果は抜群あるが、一歩間違えば騒動で怪我人が出てもおかしくない、リスキーな季節イベントである。

 学園長は毎年「いい加減危ないからヤメよう」と提案しているらしいが、教頭が頑なにうんと言わないとか。

 さすがは男版デヴィ夫人の異名を持つ教頭。

 いやらしくいびつに曲がってはいるものの、通った芯の強度は堅い。


 このイベントのスタートは、生徒会役員の緊急放送から始まる。

 しかも、リアリティを出すために、普段アナウンスをしている者は禁止。

 つまり、毬萌と花梨のお馴染みな声での緊急発令が今回はなし。


「平気ですか? 公平先輩」

「おう。とりあえず、順序は覚えた。しかし、やっぱり不安だな」

 放送室には俺。

 今回の緊急事態発令を仰せつかった。

 白羽の矢をぶっ刺されたとも言う。


「いざとなったら、あたしに聞いて下さいね!」

 お隣には花梨さん。

 普段、生徒会主導の放送は彼女が行っている。

 今回は、俺が放送器具の扱いをとちらないようにサポートしてくれる。

 大変心強い。


 そして、予定の時刻。

 火災報知機をポチって、俺はマイクをオン。


「あー、こちら生徒会、じゃねぇや、放送室! ただいま、家庭科室から火が出て、ああ違ぇ、出火しまして! 全生徒は、風紀委員の指示に従って避難を」


 何と言う、しどろもどろ。

 だが、今回はその慌てた感じが良かったらしい。

「わぁー! 見て下さい、先輩! みんなすごく真剣に避難してくれてます!」

「おう。……なんでだろう?」

「ぷっ、ふふっ、それは、先輩があんなに慌てて喋るからですよー!」

「や、やめてくれ! 慣れてねぇんだ! 仕方ないだろ!?」


 ひとしきり花梨にからかわれたところで、俺たちも避難である。

「よし、とっとと行くぞ」

「はーい! 分かりました!」


 放送室のドアを勢いよく開けるのは俺。

 ガンッと言う音と一緒に、手首に鈍痛が走る。

「痛い……」


「もぉー。公平先輩ってば、扉も開けられないんですか? 仕方ないですねー」

 花梨もトライしてみるものの、やはり扉は開かず。

「あれっ? あれっ!? お、おかしいですねー」


「これ、閉じ込められてるな」

 察するに、避難の際に誰かが、隣の印刷室に積んであった箱を崩したのだろう。

 あれの中身はコピー用紙。

 高々と積み上げられていた記憶のある箱が、上手い具合にドアを塞いでいるのだ。


「仕方ねぇな。避難訓練が終わったら助けを呼ぶか」

 スマホは持っているが、すぐに救援を乞うと訓練の進行を止めてしまう。

 それはいけない。


「……ん? 花梨、どうした?」

「せんぱーい! ……今なら、二人っきりですよ?」



 そして、冒頭に話は戻る。



「先輩は、あたしと一緒に閉じ込められて、ドキドキしませんか?」

「ばっ! おま、からかうんじゃないよ!」

「からかってないです。だって、あたしはすっごくドキドキしてますし」

 見ると花梨の顔はかなり赤らんでいる。

 呼吸も少し荒い。


「ま、待って、落ち着け、花梨! どうしたってんだ?」

「好きな人と急に密室に閉じ込められたら、誰だってこうなりますよ?」

 これはいけない。

 花梨の良くないスイッチが入ってしまっている。

 ここは、年長者の俺がしっかりしなくては。


「先輩?」

「おう。どうした」



「——キス、しちゃいます?」



 心臓が跳ねた。

 さすがに俺だって、思春期男子である。

 憎からず想っている後輩に、顔を赤くしてこんな事を言われたら。

 常識と言う名の鎧が、ボロボロと、蒸しパンのように崩れていく画像が見える。


「だ、ダメに決まってんだろ!? な、何を言ってんだ!?」

 この言葉を絞り出すまでに数秒の間があった。


 まさか、俺は……。

 グラついていると言うのか。

 気付けば彼女の唇を見ている事に気付き、これはいかんと首を振る。


「もぉー! 先輩のいくじな……し……」

 フラりと花梨が倒れ込んでくる。

「危ねぇ! おおあっ」

 しっかり受け止める事が出来るはずもない。

 が、それでもちゃんとクッションにはなる俺。


「花梨!? おーい、花梨!! しっかりしろ!!」



 この後、もはや訓練がどうのと言っていられなくなった俺は、鬼瓦くんをスマホで即刻召喚。

 彼の剛力によってドアは解放され、花梨は速やかに保健室へ運ばれた。

 軽い熱中症だったとの事で、ホッと一安心。



 しかし、である。

 あの時、あのまま花梨が倒れなかったら、俺はどうしていただろうか。



 その疑問は、いくらかき消そうとしても、脳裏から離れなかった。

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