第105話 地獄と地獄

「はーいっ! たっぷり食べて良いよーっ!」

「こちらも召し上がれ、ですよ! お腹空きましたよね?」



 逃げよう。

 俺は決意した。ここから逃げよう、今すぐに。

 まだ間に合う。少しでも早く、少しでも遠くへ。


「ちょ、ちょいと俺ぁ、お花を摘みに!!」


「ダメだよぉー。せっかくのカレーが冷めちゃう!」

「そうですよ! 男の人なんですから、ちょっとくらい我慢して下さい!」


 知らなかったのか? 大魔王からは逃げられない。


 テラス席にて、差し出される二つの皿。

 右を見ても左を見ても地獄。

 ここから無事に帰すまいとする、地獄の確固たる意志を感じる。

 かたわらにはしかばねとなった、かつて鬼瓦くんと言う名だった地獄に咲く一輪の花。


 その昔、織田信長が髑髏どくろさかずきにしたと言う逸話があるものの、真偽は不明である。

 こちらはお皿に髑髏を盛り付けてある。審議するまでもなく地獄。


「そだそだ、どっちから食べるか決めないとだねっ!」

「あ、うっかりしていました! じゃあ、先輩、じゃんけんで!」


 地獄の門番がことさらに可愛らしいだけが救いであるが、もはやその程度では拭いきれぬ地獄の業火。

 海にはちみつをスプーン一杯垂らしたところで、しょっぱい海水が甘くはならない。


「やたーっ! じゃあ、わたしが先攻ねーっ!!」

「くぅぅっ、毬萌先輩、じゃんけん強すぎます!」

「にひひっ、手加減はなしなのだよ、花梨ちゃんっ!」

「ぐぬぬ……仕方がありません。お先にどうぞ」



「はいっ。どうぞーっ! 毬萌特製、とろけるデザートカレーだよーっ!」

「……お前、エプロン案外似合うな。……可愛いぞ」

「みゃあっ!? な、なんでいきなりそんな事言うのぉー!?」

「最後にな、言っておこうかなって、……思ってな」


「……いただきます」

 逝ってきます。


 スプーンですくうと、ドロドロとした乳白色のカレールーが笑った気がした。

 匂いは、濃厚なミルクセーキのようである。

 ババロアだと思えば、行けなくもないか。

 バカ。行けないよ。

 ババロアを白飯にぶっかけて食う素っ頓狂すっとんきょうがどこにいるんだ。


「……はむ。……ぅぅぅぅぅぅぅぅあぁぁぁぁぁぁぁぁっ」

 自分のリアクションはすべて把握していた気でいたけども、すごいな。

 俺ってこんな声も出せるんだ。

 煮詰めたジャムのような食感のカレーは、噛めば噛むほど残酷な甘みが脳内細胞を一つずつ握りつぶしていく。

 ささやかな抵抗をと、息を止めてみたものの、苦しくなって口から吸い込んだ空気が、俺の魂と一緒に鼻から抜けていく。


「どうかな? おいしーっ?」

「……ノーコメントで」

 この味を表現する言葉が見つからなかっただけなのだが、毬萌は「勝負だから敢えて感想は言わないんだねっ」と思ったらしい。



「次はあたしのカレーですよ! 燃える元気カレーです!」

「……花梨は、料理するときポニーテールにするのな。……すごく可愛い」

「や、やだなぁ、先輩! そんな真剣な目で言われると、照れますよー!」

「……はは。この目がつぶれる前に、……伝えときたくてな」


「……いただきます」

 逝ってきます。


 まず、眼前に皿を置かれた瞬間から、涙が滲み出てくる。

 体の悪い部分を浄化してくれているようにも思えるが、デトックスを越えて、ただのデスがその先に待ち構えている事は容易に分かった。

 ドライカレーと呼ぶには余りにも赤い。

 カプサイシンは体に良い?

 バカ。限度って知らないの? 適量って言葉を辞世の句に入れよう。


「……はむ。いぃぃぃぃぃぃぃあぁぁぁぁぁいぃぃぃぃぃぃっ」

 先ほどの毬萌のカレーがジャブの応酬で殺しに来るタイプなら、こちらはハートブレイクパンチの連打である。

 一口食べるごとに、心臓の悲鳴が聞こえる。

 左心室辺りから緊急事態を知らせる伝令が体中を駆け巡るも、どこへ行っても助けは来ない。

 もう、ほとんどが息をしていないからだ。


「自信作ですよ! 美味しかったですか?」

「……ゔぉーゔぉゔぇんゔぉノーコメントで」

 この味について言及する言葉を既に発する事が出来ないだけなのだが、花梨は「最後に発表するんですね!」と思ったらしい。



 突然、空が鳴き出した。

 俺のお迎えが来たのかもしれないと思ったが、その雷鳴と同時に、土砂降りの雨が大地へと降り注ぐ。

 山の天気は変わりやすいと言うが、これは本当に偶然なのか。



「みやあぁぁっ!? す、すごい大雨だよっ!?」

「いたたっ、雨が酷すぎて、もう痛いです!」


「お二人とも、早く屋根の下に入って下さい!!」

 気付けば鬼神復活。

 やはり鬼は耐久力が違う。


「で、でもでも、カレー!」

「あ、そうですよ! 濡れちゃいます!!」


「もうこれだけ雨水が入ってしまっては、どうしようもありません! 諦めて下さい! お二人が体を冷やさない事の方が大切です!!」

 鬼瓦くん、俺の言いたい事を全部代弁してくれて。

 やっぱり、君ってヤツは、頼りになる男だなぁ。


 天空から降り注ぐ大粒の雫は、全てのものを水に流してくれるようであった。

 地獄のようなカレーも、もう一つ地獄のようなカレーも、全てを平等に。

 そしてベンチから動けない俺の体も、雨粒が打ちつける。

 その痛みが、俺に生への喜びを教えてくれた。



 今回ばかりは礼を言わせてもらおう。

 これ以上、カレーを食わなくて良くなった件。

 一生懸命に作ったカレーが地獄だったと本人たちが知らずに済んだ件。

 雨を降らせてくれて、あり……がとう、ヘイ……ゴッド……。



「先輩! ぜんばぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっ!! ゔぁぁあああぁぁぁぁっ!!」

 雨の中、俺を抱き起す鬼瓦くんの咆哮だけが響き続けていた。

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